タレント・マネジメント経歴(1938年 – 1954年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 08:53 UTC 版)
「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「タレント・マネジメント経歴(1938年 – 1954年)」の解説
パーカーの音楽産業への関わりは、1938年にポピュラー歌手ジーン・オースティン (Gene Austin) のプロモーターになったことがきっかけであった。1924年以来、8600万枚以上のレコードを売り、1700万ドル以上を稼ぎながら、当時のオースティンは不振に陥っていた。オースティンはそれまでに稼いだ金のほとんどを、パーティーや車、大邸宅、そして女性たちに浪費して尽くしており、かつての人気も、ビング・クロスビーなど、新しい歌手たちの台頭によってすっかり翳リを見せていた。このスターをプロモートする仕事に就いたパーカーは、自分のカーニバルでの経験を活かせば、チケットを売り、群衆を集めることがスムーズにできるようになることを悟った。パーカーは非常に優秀なプロモーターであったが、彼の関心はマネジメントへと向けられていた。 オースティンはパーカーに、当時すでに音楽が大きなビジネスになりつつあったテネシー州ナッシュビルへの移住の機会を提供したが、理由は分かっていないがパーカーはこの申し出を断った。パーカーは、家族とともにフロリダ州テンプル・テラス (Temple Terrace) にそのまま住み続けることになったが、おそらくは転居の際にいろいろな手続きをする中で不法在留が明るみに出るおそれたためだったのであろう。しかし、その後1年も経たないうちに、第二次世界大戦の開戦後に成立した、求められれば米国のために戦うと誓約することと引き換えに不法在留外国人にも合衆国市民権を与えるとした、1940年外国人登録法(Alien Registration Act of 1940:通称スミス法 (Smith Act))によって、アメリカ合衆国の合法的市民となる機会を得た。しかし、パーカーはこのとき登録をしなかったが、おそらくは軍務に就いていた前歴が公になることを避けたかったからだったのだろう。 代わりにパーカーは、地元の動物保護施設を運営していたヒルズボロ郡人道協会 (the Hillsborough County Humane Society) の現場担当者の仕事を見つけた。この仕事は、安定した給与をもたらした上、ウェスト・タンパ (West Tampa) の外れにあった協会施設の上階に家族とともに住み込める家賃無料の住居をパーカーに与えた。協会は、資金集めの活動を必要としており、パーカーはこの動物保護施設への認知を広め、資金を集めるために、自らのプロモーションの経験を活かした。 資金集め活動の中で、パーカーはチャリティ行事に出演する芸能人たちを見つけにテネシー州へ向かい、ミニー・パールやエディ・アーノルド (Eddy Arnold) といったスターたちを含め、芸能人たちを呼び寄せた。こうしてパーカーは、協会のためではなく自身のビジネスとして、再び音楽プロモーションに、以前より深く関わることになった。 1945年、パーカーはアーノルドの常勤のマネージャーとなり、アーノルドの売り上げの25%を得るという契約を結んだ。その後、数年間にわたって、パーカーはアーノルドのヒット曲、テレビ出演、ライブ・ツアーを支え続けた。 1948年、パーカーは、かつてカントリー歌手だったルイジアナ州知事ジミー・デイヴィス (en:Jimmie Davis) の選挙運動に貢献し、デイヴィスからルイジアナ州防衛隊 (Louisiana State Militia) 名誉大佐(カーネル)の称号を与えられた。パーカーはこの称号を生涯を通して使い続け、知人たちの間では、単に「大佐/ザ・カーネル (the Colonel)」で通っていた。 1952年、トミー・サンズ (Tommy Sands) という歌手がパーカーの目に留まり、パーカーはすぐにこの若者を売り出しにかかった。パーカーはライブの場を設け、15歳だったサンズの父親のような存在となった。パーカーは、サンドをロイ・ロジャース (Roy Rogers) の後継者のように育てようとしたが、サンズ自身はそうした目論見に関心は示さなかった。そこでパーカーは、RCAレコードのスティーヴ・ショールズ (Steve Sholes) のもとにデモ録音を送った。ショールズは、サンズにはほとんど関心を示さなかったが、サンズのために録音にふさわしい曲を探すことを約束した パーカーが歌手ハンク・スノウ (Hank Snow) との仕事に時間を大きく割くようになったため、エディ・アーノルドはパーカーを解雇した。しかし、その後もパーカーは、アーノルドのライブ・ツアーの多くに関わり、契約を打ち切りたいなら5万ドルを支払うようアーノルドに要求した。パーカーとスノウは、その後も上手く協力しあい、後にはハンク・スノウ・エンタープライジズ・アンド・ジャンボリー・アトラクションズ (Hank Snow Enterprises and Jamboree Attractions) を創設し、売り出し中のカントリー歌手であったスノウにとっての成功したプロモーション手段とした。
※この「タレント・マネジメント経歴(1938年 – 1954年)」の解説は、「トム・パーカー (マネージャー)」の解説の一部です。
「タレント・マネジメント経歴(1938年 – 1954年)」を含む「トム・パーカー (マネージャー)」の記事については、「トム・パーカー (マネージャー)」の概要を参照ください。
- タレント・マネジメント経歴のページへのリンク