ソ連・ロシアと中華人民共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:08 UTC 版)
「外満洲」の記事における「ソ連・ロシアと中華人民共和国」の解説
毛沢東はソ連に助けられ建国に成功し、その後もソ連への依存を続けた。彼は清とロシアの不平等条約を認めない立場であり、外満洲はロシアに奪われた土地であったという認識を持っていたとされるが、蜜月関係を鑑み、中ソの条約締結に際しては問題を棚上げして領土確定を避けようとした。1959年、アイグン条約と北京条約の解釈をめぐり、外満洲と内満洲の間の国境をめぐる中ソ間の緊張(中ソ対立)が高まった。これはヨーロッパの植民地主義を打破しようという動きでもあり、毛沢東とニキータ・フルシチョフとの間のイデオロギーの乖離のあらわれでもあった。1969年、緊張は中ソ国境紛争と化し、珍宝島(ダマンスキー島)の管轄をめぐって多くの死者を出す武力衝突となった。 1989年、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の訪中で中ソ関係はようやく正常化し、懸案だった国境問題の話し合いが始まった。1991年5月16日、主に東部の国境問題に関して中ソ国境協定が結ばれ、アルグン川・ウスリー川・ハンカ湖・豆満江など、外満洲の大部分に関して国境線が定まった。ソ連崩壊後、引き続き国境問題の解決は続き、1994年には中央アジア部分に関する中ロ国境協定が結ばれている。 残る境界未確定部分や紛争地域に関しても個別に合意に達していった。中国は江沢民の時代に入り、1999年ロシアのボリス・エリツィン大統領と国境に関する議定書への調印を行った。ここではアイグン・北京条約が不平等条約であったかどうかの問題や江東六十四屯占領の問題には触れず、国境をアムール川の中国寄りから中央に引きなおしたうえで現状の領土を容認する形となった。2001年にはウラジミール・プーチン大統領と中露友好条約を締結させ、この議定書を確認し国境を画定させた。こうして外満洲に対する中国の主張は断念されることとなった。 2004年、最後の大きな中ロ国境協定が結ばれた。ロシアはアムール川とウスリー川の合流点にあるタラバーロフ島(中国名:銀龍島)を中国に引き渡し、大ウスリー島(中国名:黒瞎子島)を中露で半分に分けるという譲歩をして合意を行い、これによって中国とロシアの長年の国境論争は終結した。これら合流点の二つの島のうち大ウスリー島はハバロフスク市の目の前に位置し、長年ロシアの管理下にあって近郊農園や工場、別荘としても利用されてきたが、河川航路よりも中国寄りにあるとして中国は領有権を主張してきた。この合意は二つの国のリーダーたちによる和解と協力の雰囲気を促進することを意図していたが、双方の内部には不満を残すものであった。ロシア人たち、とりわけハバロフスクのコサック農民は中州にあった大きな農地を失うため、領土を少しでも譲歩したことに対し大いに不満であった。一方中国では政府の検閲により国境の条約に関するニュースや情報は統制されていたが、台湾(中華民国)や海外在住の中国人社会、情報統制をすり抜けてニュースを手にしたわずかな人数の大陸の中国人らは、この条約はロシアの豊富な石油資源の独占利用と引き換えにロシアの外満洲統治の合法性を公式に承認したものだとして締結を批判した。
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