ストーンズ加入
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1960年12月、音楽が趣味である職場の仲間に影響され、中古のエレキギターを買い、仲間達とポップグループを結成する。グループ名も決めないうちに1961年1月に初めてのステージを踏み、当時の最新ヒット曲を披露した。やがてグループ名をクリフトンズと決め、セミプロバンドとして活動を本格化させる。同年8月、妻ダイアンと訪れたダンスホールで演奏していたバロン・ナイツというバンドのベースの音に衝撃を受け、ギターからベースへの転向を決意。当初は手持ちのギターにベースの弦を張ろうとしたが失敗し、中古のベースを購入している。クリフトンズはクラブなどで定期的にギグをこなしていたが、プロモーターからまともに出演料が支払われないことによる財政難や、主要メンバーが脱退したことが要因となり、1962年秋頃には解散状態となった。 12月初旬、クリフトンズのバンドメイトだったトニー・チャップマンから、「ローリング・ストーンズというバンドのベースが空席だから入らないか」と誘いを受ける。トニーはクリフトンズのメンバーには内緒で、6月にストーンズのドラマーとして加入していた。ビルはまずイアン・スチュワートを紹介され、12月7日、リハーサル中だったストーンズのメンバーと初めて対面する。ビルの第一印象ではミック・ジャガーは気さくだったがキース・リチャーズやブライアン・ジョーンズはよそよそしかったという。だが、ビルが所有する大きなアンプを持ち込むと状況が一変した。当時ストーンズは小さなアンプしか持っておらず、キースは「あんな大きなスピーカーは初めて見た」とその時の興奮を語っている。またビルが飲みものやタバコを奢ると、飢えていた彼等は飛びついてきたという。この気前のよさがビルをストーンズに加入させる一押しとなった。ただしスチュワートは「ビルがアンプをいくつか持っていたからグループに入れたっていう話はまるっきり嘘じゃない。だけどとにかくビルは上手かったんだ」と、あくまでビルの演奏技術を買われての加入だったことを強調している。 メンバーは揃ったが、グループはトニー・チャップマンのドラマーとしての技量に疑問を抱いていた。トニーのプレイはキースから「曲のはじめと終わりでスピードが3倍速くなるか4倍も遅くなるか」と酷評されるほどであった。1963年1月、グループは複数のバンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功、トニーはクビを宣告された。激怒したトニーはビルに共に辞めようと持ちかけたが、ビルはそれを断わり、ストーンズに残ると宣言した。ビルは後に「チャーリーが入った途端、俺は前よりもベースが上達した」と語ったが、トニーも「チャーリーの方が俺よりもずっと上手い」と素直に認めている。 同年1月10日、ストーンズ加入後初めてのマーキー・クラブでのギグでビルは「リー・ワイマン」と紹介され、以降ミュージシャンとしては本名のウィリアム・パークスを名乗らないことにした。
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ストーンズ加入
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ローリング・ストーンズは1969年に3年ぶりの北米ツアーを行うことを熱望していたが、問題があった。バンド創立以来のギタリストであったブライアン・ジョーンズは薬物依存を脱しようと努力していたが、警察に執拗に家宅捜索等をおこなわれた結果、2度逮捕されてしまい、海外ツアー実施の障害となっていた。ステージから遠ざかっていたストーンズは過去のバンドと見なされ、その価値をステージ上で証明する必要があったため、1966年以来3年間遠ざかっているワールド・ツアーを絶対に行わないといけない状況にあった。逮捕前から他のメンバーから疎外されつつあったブライアンは結局バンドを解雇されることになり、解雇後間もなく自宅のプールで溺死した。この場所は「クマのプーさん」の著者で知られるA・A・ミルンがかつて所有していた農場で、現在もハートフィールド村にある。 ストーンズ参加は、5年後にメンバーとなるロン・ウッドの場合と異なり、オーディションは行われなかった。ブライアンの脱退後、ミック・ジャガーはジョン・メイオールからテイラーの紹介を受け、当時録音中の『レット・イット・ブリード』のセッションに参加させた。テイラーは「カントリー・ホンク」「リヴ・ウィズ・ミー」の2曲に参加したが、単なるセッションの仕事と考えていた。数日後、ジャガーはテイラーにストーンズの正式ギタリストに選ばれたことを伝えた。「ホンキー・トンク・ウィメン」のギター・トラックは「カントリー・ホンク」でのテイラーのリフにインスパイアされ、再録音されることになった。そのため「ホンキー・トンク・ウィメン」には解雇前のブライアンの演奏を含め、ギターが3トラック収録された。 テイラーが参加したライブは1970年の『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』に収録されている。同作はオルタモントの悲劇の1週間前、マディソン・スクエア・ガーデンでの2夜連続ライブの模様が収録された。彼の参加したスタジオ・アルバムは『スティッキー・フィンガーズ』『メイン・ストリートのならず者』『山羊の頭のスープ』『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』の4作品である。 ストーンズ加入後は主にリード・ギターを担当していたが、一部の曲(「ビッチ」「シェイク・ユア・ヒップス」など)ではリズム・ギターに廻り、非常に的確なリズム・ギターを披露していた。また「フィンガープリント・ファイル」ではベースも担当した。
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