ストーンズ脱退と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 13:55 UTC 版)
「ブライアン・ジョーンズ」の記事における「ストーンズ脱退と最期」の解説
1969年になると、ブライアンはもはやスタジオに現れる事すらほとんどなくなっていた。6月中旬、ブライアンは自宅のコッチフォード・ファームで、自らが声をかけたメンバーと共に新しいバンドのリハーサルを行う。招かれたのはアレクシス・コーナーの他、ジョン・メイオール、ミッチ・ミッチェルなどであった。ブライアンはこの時イアン・スチュワートにも声をかけたが、スチュワートはこの申し出を丁重に断っている。 6月8日、ミックはキース、チャーリーを伴い、ブライアンのもとを訪れ、ストーンズから脱退してもらうよう頼んだ。ブライアンは10万ポンドの一時金と、ストーンズが存続する限り年2万ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意した。記者会見でブライアンは「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなってしまった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語った。 脱退から間もない7月3日午前0時ごろ、ブライアンが自宅のプールの底に沈んでいるのが発見された。スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時ブライアンは既に死亡していた。27歳だった。9日に行われた検死では、「アルコールとドラッグの影響による不運な出来事」と結論付けられた。 ブライアンに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた7月5日のハイドパーク・フリーコンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートして行われることとなった。同コンサートはグラナダTVで放送され、後に音楽ソフトとして発売されている。ブライアンの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはビルとチャーリーのみだった。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているという説があるが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロンのキース・リチャーズ評伝「KEITH RICHARDS Life as a Rolling Stone(邦題:キース・リチャーズ 彼こそローリング・ストーンズ)」の、ブライアンの葬儀場面の記述が発端だと思われる。なお、上記の言葉はブライアンが父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である。
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