ストーンズのメンバーとして
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「ビル・ワイマン」の記事における「ストーンズのメンバーとして」の解説
1963年5月にストーンズはレコード・デビューを果たす。妻子のいたビルはデビュー後もしばらく会社勤めを続けていたが、ストーンズの活動との並行に限界を感じ、同年8月までに退職しプロのミュージシャンに転向した。また、ファンクラブ会報でのプロフィールでは年齢を5歳ごまかし1941年生まれとした。この設定は1969年に妻ダイアンとの離婚をプレスに報じられた際に本当の年齢が明かされるまで守られた。 最年長で寡黙なイメージのビルは「サイレント・ストーン」と渾名された。ストーンズは当初からミック、キース、ブライアンの「はね回り組」と、ビルとチャーリーの静的なリズム組に分かれており、ビル自身も著書で「俺は自分が"パフォーマンス組"でないと思ってたし、音楽がきちんとしていれば満足だ。それが本来のベーシストの役割だ」と綴っている。だが、ストーンズの初代マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムの戦略により、グループがミック、キース組と他の3人とで分け隔てられ、グループの主導権がミックとキースに握られると、他の3人の立場はより軽んじられるようになってしまった。メンバー間の格差はクリエイティブな面のみに留まらず収入の面にも表れ、ストーンズの内部には極めて不公平な勢力図が出来上がっていた。 1967年、アルバム『サタニック・マジェスティーズ』で、初めてビルの書いた曲「イン・アナザー・ランド」が採用された。この曲ではビル自身がリードボーカルを取り、さらにビル・ワイマン名義でシングルカットもされ、全米チャートで87位にランクインしている。ストーンズの楽曲でビルの名が作者としてクレジットされているのは、この他には1975年の未発表曲集『メタモーフォシス』収録の「ダウンタウン・スージー」(録音は1969年)のみである。
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