シナリオライターに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)
1928年10月、山中はマキノの勧めで、マキノプロから独立した嵐寛寿郎の独立プロダクションである嵐寛寿郎プロダクション(第一次寛プロ)にシナリオライター兼助監督として入社した。マキノによると、撮影所の人たちの山中に対する「のろまな助監督」というイメージは相当深く根をおろしており、このままでは出世は望めそうにもなかったため、転社を勧めたという。寛プロは、貸しスタジオの双ヶ岡撮影所で映画を作り、片岡千恵蔵などの独立プロ4社と日本映画プロダクション連盟を結成して自主配給に乗り出したが、すぐに経営難となり、他の独立プロが次々と解散する中、寛プロも連盟の瓦解で自主配給の道を絶たれ、撮影所も追い出され、さらにはスポンサーに逃げられて困窮した。山中が入社したのはそんなジリ貧の時であり、その日の宿賃や飯代を手に入れるために寛寿郎のブロマイドを売り歩き、煙草も手に入れられないことからモク拾いをした。 山中の入社後、寛プロは金欠状態の中、奈良の旅館を拠点にオールロケで『大江戸の闇』と『鬼神の血煙』を撮影した。山中は『大江戸の闇』でチーフ助監督を務めたが、『鬼神の血煙』ではシナリオを執筆し、山中にとって初めての映画化されたシナリオとなった。しかし、1928年末に寛プロは解散となり、『大江戸の闇』は大晦日に公開することができたものの、『鬼神の血煙』は配給が決まらず公開できなかった。山中はあるもの全部を質に入れて買った汽車賃だけを渡されて寛寿郎や従業員たちと別れ、12月26日に京都の実家に舞い戻った。それから山中は龍安寺の近くの寺に下宿し、そこに籠もってシナリオの勉強に打ち込み、本を書いては友人に見せて酷評されるというのを繰り返した。やがて学問が足りないことを痛感して、昼は図書館に通って本を読み、夜は私塾で文学を教わり、その合間にシナリオを書くという生活を送った。山中は浪々の身で煙草代にも不自由する中、寝食も忘れてシナリオに心を走らせ、ある日に気が向いて兄の作次郎のもとを訪れた時は、「まず散髪して風呂屋に行ってから家に上がれ」と言われるほど汚い身なりをしていたという。 1929年初頭、寛寿郎は東亜キネマに主演俳優として入社し、2月に同社の配給で『鬼神の血煙』がようやく公開された。山中は寛寿郎から「再起や、おいで」という電報を受け取り、3月に東亜キネマにシナリオライター兼助監督として入社した。同社で最初の映画化シナリオは、7月公開の大佛次郎原作の『鞍馬天狗』である。11月には佐々木味津三の時代小説『右門捕物帖』シリーズの第1作を脚色した『右門一番手柄 南蛮幽霊』が映画化され、この作品で初めて批評家に脚色の巧さを評価された。同年12月1日には1年志願の幹部候補生として福知山市の歩兵第20連隊に入隊したが、兵営中も勤務の合間に『右門捕物帖 六番手柄』『鞍馬天狗 解決篇』『なりひら小僧』『右門捕物帖 十番手柄』(1930年)の4本の寛寿郎映画のシナリオを執筆した。「右門捕物帖」「鞍馬天狗」「なりひら小僧」はいずれも寛寿郎の当たり役となったシリーズとなり、これにより山中は寛寿郎の座付作者としての地位を確立した。 1930年11月、山中は陸軍歩兵伍長で満期除隊し、東亜キネマに現場復帰した。1931年3月、寛寿郎の独立の動きが表面化し、その結果東亜キネマ社内に独立プロを設立することになり、当時龍安寺近くの下宿でストックのシナリオの執筆に没頭していた山中もこれに参加した。同年8月には寛寿郎がついに東亜キネマを離れ、新興キネマとの提携による嵐寛寿郎プロダクション(第二次寛プロ)として完全独立し、9月に古巣の双ヶ丘撮影所で映画製作を始めると、山中もやはりこれに同行した。この除隊後から第二次寛プロ参加にかけての約1年間、山中は寛寿郎の座付作者として「右門捕物帖」「鞍馬天狗」「なりひら小僧」の3つのシリーズ作品を中心にシナリオを書き続け、山中に対する評価も高まっていった。当時の山中のシナリオの大部分を監督したのは、寛プロ唯一人の監督だった仁科熊彦であるが、山中は仁科から映画のカッティングの方法を学んだ。
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