コメットの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:31 UTC 版)
「デ・ハビランド DH.106 コメット」の記事における「コメットの開発」の解説
後にコメットと呼ばれる機体は、当初タイプ4として提案されたカテゴリー、即ち超高速で大西洋横断飛行可能な「ジェット郵便輸送機」として計画されていた。 しかし、同国初ジェット戦闘機の開発に成功していた老舗航空機メーカー・デ・ハビランド社は、より大型化した「ジェット旅客機」という全く新しいジャンルに挑むことを表明し、軍需省から2機、英国海外航空(BOAC、現ブリティッシュエアウェイズ)から7機の仮発注を受け、国家プロジェクトとして1946年9月に開発が始動した。 計画着手時には24席クラスの無尾翼機案が有力だったが、同年、デ・ハビランド社がドイツのMe163「コメート」を摸して開発した無尾翼高速研究機DH.108は試験飛行中に墜落、同社創業社長サー・ジェフリー・デ・ハビランド(Geoffrey de Havilland)の息子で事故機の操縦者だったジェフリー・ジュニアは死亡した。このためデ・ハビランド社長にとって、世界初のジェット旅客機を自らの手で早期に完成させることは悲願になり、機体は堅実な緩後退翼案に転換すると共に、融通性重視で自社製ターボジェットエンジン「ゴースト」 エンジンが選定された。 イギリスで開発され、第二次世界大戦終結時には既に十分な実績を積んでいた遠心圧縮式ターボジェットエンジンだったが、機械的限界から推力5,000ポンド(lbf)(≒22kN, 2,300kg)以上に向上する余地がほとんどなく、当時における最強水準であったデ・ハビランド「ゴースト」やロールス・ロイス「ニーン」とて例外ではなかった。 ジェットエンジンの改良面で、遠心式よりも構造は複雑化するが、小径で応答性に勝り、制御パラメータがより多く取れ、発展性のある軸流式への転換は技術的必然であった。しかし後退翼と同様に、軸流式ターボジェットエンジンの分野で先陣を切っていたドイツの技術者は、ドイツ敗戦と同時に米ソが奪い合う形で自国に招聘していたため、英仏は独自開発を余儀なくされ、大きく出遅れていた。コメットの設計着手時に基礎研究段階にあった、軸流式エンジンのロールス・ロイス「エイヴォン」、並びにアームストロング・シドレー「サファイア」の開発は難航し、実用化は1950年以降になると予想された。それらの完成を待っていてはコメット計画全体が遅延するため、敢えて小出力の「ゴースト」で試作が進められることになった。 機体の規模に対して、4発をもってしても推力が不足する「ゴースト」の採用は、設計全体に影響を及ぼした。コメットがいまだ製図板上にあった1947年末に、米ボーイングはドイツから受け入れた亡命技術者達に青天井の予算を与え、戦時中のプロジェクトを継続させた結果、後退翼を持つ超革新的な6発式大型ジェット戦略爆撃機 B-47 を進空させると共に、後に主流となる主翼パイロン吊下式のエンジン搭載法を特許で固めてしまった(ボーイングはその後1952年に進空させた超大型ジェット爆撃機・B-52において、8発ものエンジンを吊下式で搭載して必要なパワーを確保している)。このため、デ・ハビランド社の主任技師ロナルド・ビショップ(Ronald Bishop)は、空気抵抗の低減を兼ねて主翼付根に大径な遠心式エンジンを2基ずつ埋め込む回避策を選んだ。 推力の不足を補い、高与圧(高度 35,000 ft=約 10,000 m 時に 0.75 気圧=2,700 m 相当を保つ)と、-60 度Cに達する低温に耐える必要から、機体には「DH.98 モスキート」など同社のお家芸とも言える木製高速機で十分な経験を積んだ、合成系接着剤が多用され、新開発の超々ジュラルミン薄肉モノコック構造による徹底した軽量化と、表皮の平滑化が図られた。後にすべての大型機に装備されるボギー式主輪を初採用したのもコメットで、これらはロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) との共同開発である。
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