コミックマーケットと共に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:07 UTC 版)
「米澤嘉博」の記事における「コミックマーケットと共に」の解説
1972年、一浪を経て明治大学工学部に入学し、上京。大学のサークルはマンガ研究会には属さず、SF研究会に所属。自作の漫画同人誌をひっさげ、マンガ研究会に喧嘩を売りに行ったこともあったという。 明大在学中から漫画批評集団「迷宮」に参加。迷宮の同人として、1975年からのコミックマーケット開催に加わり、1980年(C14)から2006年夏(C70)までコミックマーケット準備会代表を務めた。 また、黎明期のコミックマーケットで活動していた漫画家・吾妻ひでおのファンとして1980年代前半ごろまで活動を行い、阿島俊名義で「大日本吾妻漫画振興会」を主宰し、同人誌『吾妻ひでおに花束を』を出版。吾妻ファンによる独立系出版社「虎馬書房」にも参加した。なお、吾妻の『不条理日記』に登場する架空の本、クルムヘトロジャン著『へろ』『ふるむまかをめら』が実際に「知佳舎」から制作・刊行された際には執筆協力も行っている。 準備会が独立した組織になったのは、米澤が代表になってからだという。また、準備会自体は任意団体なので1985年外部取引などのために株式会社コミケット(後に有限会社、特例有限会社)を設立し、米澤が社長を兼務した。この間にコミックマーケットは飛躍的に発展、規模はサークル数にして100倍になった。また、毎回発行されるカタログ、サークル参加者への呼びかけである「コミケットアピール」、1994年から始めた広報誌『COMIKET PRESS』では、必ず米澤の挨拶が冒頭に来るしきたりであった。 2006年2月になって定期検診で肺に影があると診断を受けたが、精密検査を受けたのは5月末になってからだった。7月に肺癌の告知を受けたが、身内などごく少数以外にはこの事実は伏せられた。その8月のコミックマーケット70には入院先の病院から参加し、周囲にはギックリ腰(実は癌が腰に転移していたもの)と説明していた。 その後、帰郷して病気の母を見舞った無理も手伝い(母は9月10日に死去)病状が悪化。9月30日、健康上の問題を理由に準備会代表の退任を発表した。後任は共同代表制を取り、安田かほる・筆谷芳行・市川孝一の3人。翌日の10月1日午前4時40分、東京都渋谷区の病院で肺癌のため逝去。享年53歳。通夜・葬儀は東京都港区の善福寺で米澤家とコミックマーケット準備会及び有限会社コミケットの合同葬で執り行われた。 2006年12月29日から31日に渡って開催された「コミックマーケット71」では、カタログ等での事前告知を行なった上で、最終日の終了アナウンスの直前、31日の15時59分に場内放送による呼びかけにより、米澤元代表へ黙祷が捧げられた。時間にすれば三十秒足らずだが、終始騒がしい会場が沈黙に包まれていた。また没後の2007年にはファン活動による功績により、第38回星雲賞特別賞を受賞している。 米澤の急逝から現共同代表への体制移行の舞台裏についてはコミックマーケット40周年史『40th COMIC MARKET CHRONICLE』に掲載された松智洋によるルポルタージュ『代表が代わった日』に詳しい。
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