クウェート侵攻・湾岸戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 07:18 UTC 版)
「日本とクウェートの関係」の記事における「クウェート侵攻・湾岸戦争」の解説
1990年8月2日、イラクによるクウェート侵攻が開始。クウェートは傀儡政権である「クウェート共和国」となり、直後にイラク19番目の県としてクウェートを併合した。これにより、日本とクウェート本国の交流は一時的に途絶え、駐日クウェート大使館は日本の警察によって厳重な警備が敷かれた。海部俊樹政権であった日本は8月5日はイラクに対し経済制裁を実施し、これは国連安全保障理事会の経済制裁決議に先んじた対応で、いち早くクウェート併合を認めない立場を示している。外務大臣であった中山太郎は1990年8月に急遽サウジアラビア、オマーン、ヨルダン、エジプト、トルコを歴訪。また、同年10月には総理大臣であった海部俊樹が前記した国を、中山太郎がシリア等を再度訪れて、クウェート侵攻反対の立場の一致を確認した。さらには外務審議官であった小和田恆は独自にジュネーヴでサッダーム・フセインと接触し、1991年に入って武力行使の可能性が高まる中、最後まで独自にイラクに対し無条件の撤退を促して、平和的な外交による解決を目指した。なお、1990年に皇居正殿で即位礼正殿の儀が執り行われた際には、当時クウェートが亡国の憂き目に遭っていたにもかかわらず、王族のナースィル・アル=ムハンマド・アル=アフマド・アッ=サバーハ(アラビア語版、英語版)(ナーセル・アル=サバーハ)とアッ=シャリーフ(アル・シャーリフ)駐日大使がクウェートを代表する要人として参列している。 結局、侵攻はのちにアメリカが介入して湾岸戦争に発展するが、日本の大蔵省は130億ドルの資金援助を決定してアメリカや多国籍軍を支援、間接的に亡国となったクウェートを支援している。しかし、経済制裁をいち早く実行した日本はより強力な安全保障的行動が国際社会から期待されていたうえ、アメリカは湾岸諸国から石油を大量購入している日本に多額の資金拠出とクウェート安定のための共同行動を要請していた。そんな中で日本は自衛隊の派遣や人的貢献を見送り、資金の拠出もやや遅れた事で諸外国から批判された。これが契機となり、国際平和協力法となる国連平和協力法案が同年10月に国会に提出され、実際には行われなかったが自衛隊派遣や集団的自衛権についての議論が活発化した。 その後、イラクから解放されたクウェートはニューヨークタイムズ、ワシントンポストなどの米国の主要な新聞に、湾岸戦争の際にクウェート解放に協力した国に感謝を示す広告を掲載。アメリカ合衆国やイギリス、フランス、イタリア、サウジアラビア、エジプトといった主要な軍事介入国の名前が挙げられる中で、130億ドルあまりを拠出した日本はリストの中に含まれていなかった。これは日本で話題になり、人的派遣を行わなかったからではないかとの推測があった。その後、クウェートに自衛隊の掃海部隊を派遣すると貢献国の国旗が描かれた記念切手に日本が新たに追加され、これが海外有事の際の人的貢献の重要性を日本に知らしめたとされる。しかしながら、日本同様に資金援助のみながらも広告掲載されたドイツのような例や、軍事介入しながらも広告掲載されなかったアフガニスタンや韓国、ハンガリー、スウェーデン、トルコ、ホンジュラスらの例もあり、「広告に掲載されていない=感謝されていない」という当時の報道は誤りであったという分析もあり、クウェート側の単純なミスだったと後にクウェート側は述べている。 1991年2月26日にはクウェートがイラクの占領から解放され、日本との国交が復活。両国の間では引き続き友好的な関係が続いており、また湾岸戦争の際には多額の資金援助を実施した事で親日国としても知られる。
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