エプソムダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:06 UTC 版)
6月5日、ダービー当日は「冷たく湿って風の強い、陰鬱な」と形容されたほどの悪天候に見舞われた。9頭立てで行われたなか、当日の1番人気には2000ギニーを制してきたスリーヴギャリオン(英語版)が単勝約1.6倍に据えられていた。この日は国王エドワード7世と皇太子も臨席しており、観客もいつも以上に身だしなみが整った「シルクハット・ダービー」と呼ばれた。スタートが切られると先に行ったのはジョンブルという馬で、それを追いかけるのがスリーヴギャリオン、そしてオービーは6-7番手につけて道中を進めていった。オービーの鞍上を務めたジョン・レイフはレースの半分が過ぎたところで動き出し、スリーヴギャリオンが最後の直線に入るところでオービーが先頭を奪取、そのまま突き抜けて2着ウールウィンダー(英語版)を2馬身離して優勝した。敗れたスリーヴギャリオンの調教師サム・ダーリングは「より良い馬に負けた」とオービーを称賛したという。馬主のクローカーはこの競走で4万ポンドを賭けており、また優勝賞金を全額チャリティーに回したという。 ダービー勝利後の少しあと、クローカーはスリーヴギャリオンの馬主と協議して数回にわたるマッチレースを企画したが、これは結局破談となった。その後オービーはカラ競馬場に戻り、エプソムダービー勝ち馬として初めてアイリッシュダービーに出走、これに勝利した。
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エプソム・ダービー
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「エミリー・デイヴィソン」の記事における「エプソム・ダービー」の解説
1913年6月4日、デイヴィソンはエプソムダービーに出席した。レースが行われ、デイヴィソンがいる場所のトラックのストレッチを馬が走り過ぎると、デイヴィソンは手すりをくぐってトラック内に侵入した。さらに他の数頭の馬が通り過ぎてからデイヴィソンはジョージ5世が所有する馬アンマーの走路で両手をあげて立ちはだかった。王の馬は猛スピードでデイヴィソンに衝突した。デイヴィソンは激しく空中に投げ出され、意識不明で地面に打ち付けられた。騎手のハーバート・ジョーンズはアンマーがつまづいた時に投げ出された。 見ていた人々はトラックに急ぎ、救急車が来るまでデイヴィソンとジョーンズに手当を施そうとした。2人とも病院に搬送された。 騎手のハーバート・ジョーンズは脳震盪その他のけがを負ったが、回復して2週間後にはアスコット競馬場でアンマーに再騎乗してレースに出ることができた。デイヴィソンはダービーの4日後に、事故による頭蓋骨骨折と内傷のため、エプソム・コテージ病院で亡くなった。 デイヴィソンがダービーに出席した目的はあまりよくわかっていない。サフラジェットの色である紫、緑、白に彩色された大きな2枚の旗、ロンドンに帰る往復用の鉄道チケット、その日後で行われるはずだったサフラジェットのダンスの会のチケット、翌週の予定が書かれた日記を持った状態で発見されており、チケットは今でも2枚ともロンドンの女性図書館のコレクションで保管されている。このことは本人が殉教者になるつもりはなかったことを示唆している。のちの研究では、ダービーのため、その日は往復チケットしか買えなかったことが指摘された。 デイヴィソンがアンマーにメッセージかスローガンが書かれたものをつけようとしてコースに入ったという可能性もある。そうすれば馬がゴールに入る時にWSPUの旗が翻るのを見せることができるからだ。トットナム・コーナーからパテ・ニュースによって撮られた映像では、デイヴィソンがトップの馬が走りすぎるその時にコースに踏み込んでいることが見てとれる。その後、デイヴィソンは内側をさらに2頭の馬が走りすぎる間コースの真ん中に立っており、最後に一緒に走り込んできた数頭の馬のうちの1頭であるアンマーにより、最終的に地面にたたきつけられた。映像ははっきりしていないが、この時までにデイヴィソンが馬につけるつもりでWSPUのバナーを隠していた服の下から取り出していたという可能性はある。この時の目撃者たちはデイヴィソンの動機について意見を異にしていた。馬が全頭行き過ぎたと考えてトラックを単に横切ろうとしただけだと思った者もいれば、王の馬に手をかけようとしていたと述べる者もいた。歴史研究家の中には、レース前にデイヴィソンとその他のサフラジェット数名が母親宅の近所の公園で馬をつかまえて止める練習を行い、だれがエプソムに行くかをくじ引きで決めていたと指摘する者もいる。 デイヴィソンの死についてはさまざまな仮説があり、この中には故意に馬の下に「身投げ」したというものや、アンマーにサフラジェットのバナーをとめようとしていたというものもある。しかしながらどの説にも確かな証拠はない。 2013年のチャンネル4の番組でクレア・ボールディングは、デイヴィソンは自らの大義を広報するため王の馬の首にVotes for Womenのサッシュを投げようとしていたと示唆した。衝突直後に現場で見つかったとされるサッシュはジョッキークラブとの競り合いののちに作家のバーバラ・ゴーナがオークションで落札しており、今ではイギリス国会議事堂にかかっている。この仮説は、3種類の異なるニューズリールカメラで撮影された映像を番組のために法科学の専門家が精査・関連づけした調査の結果によって裏付けられた。デイヴィソンは以前に考えられていたよりもずっとコーナーの開始地点近くにおり、接近する馬がはるかによく見える可能性がある場所にいたとわかった。 競馬史の専門家で、1913年のダービーとデイヴィソンの事件について考察した2013年刊行の歴史書The Suffragette Derbyの著者であるマイケル・タナーは、デイヴィソンの行動は考えられているよりずっと意味のないものだと主張した。デイヴィソンのいたトラック内の位置と、当時はレース実況がなかったことからして、デイヴィソンは自分が衝突したのが王の馬だとはわからなかったというのである。タナーはチャンネル4で提示された仮説にも、調査の末に疑義を呈している。
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