エネルギー革命と原子力技術の商業化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:17 UTC 版)
「日本の原子力政策」の記事における「エネルギー革命と原子力技術の商業化」の解説
1960年代はエネルギー革命によって固体の石炭から液体の石油へ比重がシフトが起こり、火力発電のコストパフォーマンスが向上したことで、原発の採算性が課題とされていた。 中曽根康弘が科学技術庁長官に就任して、早々に計画の見直しが検討され、1961年2月に「新・長期計画」が発表された。「新・長期計画」は前期10年、後期10年の20年計画であり、最初の10年は、商用原発の発電規模を3基100万kW、後の10年で、火力の30%程度(650 - 850万kW)を目標と設定し、当時造船大国であった日本の状況を考慮して、新たに巨大原子力船の開発建造が盛り込まれていた。 日本の商用貨物船の将来は、これまでないほどに構造距離の延長化、大型化および高速性が要求されると見込まれており、ソビエト連邦とアメリカが推進機関に原子力を搭載した船舶“レーニン号”と“サバンナ号”を就航させたことも刺激となって、原子力が推進力として注目される状況となっていた。1963年8月、特殊法人として日本原子力船開発事業団が発足し、建造計画が始まる。当初の計画は南洋観測船で予算は36億円として入札を行ったが、国内メーカーは、構造の特殊性に金額が見合わないとして敬遠されたため、計画を変更し、収益性にも配慮して、船種を「ウラン燃料も輸送可能な特殊貨物船」とし、船体を29億円で石川島播磨重工に、原子炉を27億円で三菱重工業・神戸造船所に決定。建造は順調に進み、定系港は青森県のむつ市に決定し、船名は市にちなんで原子力船むつと命名されて、1969年6月に(原子炉を起動しない状態で)進水式が行われた。 「新・長期計画」が発表されると、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE社)から、魅力的な価格の軽水炉と「ターンキー契約」が日本に提示された。ターンキー契約とは、最初に固定された売却金額が提示されて、その金額で建造と臨界までをGEが請負い、その後事業者はマニュアルに従って運用するだけでいいという契約方式であった。原子力委員会も61年2月の時点で、日本の第二号の商用原子発電は軽水炉がふさわしいと考えていたことから、契約が相次いだ。原電は第二号炉として、1961年に福井県敦賀市を選んで、建造は東芝・日立・GEのグループが請け負う契約を結んだ。敦賀発電所は70年3月から営業運転に入った。第一号のコールダーホール改良型よりも、コスト的には単位出力あたり2.7倍優位だったとされている。関西電力は1966年4月福井県美浜町に三菱重工とウエスチング・ハウス(WH)社のグループの加圧水型軽水炉(PWR)が、東京電力は1966年5月、福島県大熊町に東芝・日立・GE社のグループの沸騰水型軽水炉(BWR)がそれぞれ採用、「ターンキー契約」方式で建設され、東京電力のように試行錯誤の中で運転開始に漕ぎ着けた。
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