ウクライナ軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:02 UTC 版)
「デバルツェボの戦い」の記事における「ウクライナ軍の撤退」の解説
2月18日、ウクライナ軍は早朝にデバルツェボからの撤退を開始した。撤退の前には約6000人の兵士が市内に立てこもっていた 。撤退の準備は数日前から秘密裏に行われており、ューヨークタイムズによればウクライナの軍事作戦の指導者層はアルテーミウシク・ハイウェイが通行不能になったことで退却する道を見つけることにかなりの時間を費やしたという 。デバルツェボの状況は現地に駐留しているウクライナ軍では防衛できない状況になっており、兵士の1人は仮にウクライナ軍が市内に留まった場合「間違いなく捕虜になるか死ぬかだ」と語った。利用可能なデバルツェボ外へのルートを見つけるために救急車が送られたが、動きを分離派の注意をひかないように農園地帯を通りその後道路に戻らせた 。北のウクライナ支配地のルハーンシクの村へのルートを選択したことで撤退計画は実行に移されることになった。午前1時0分(EET)にデバルツェボの端に軍の輸送車が列を作っていた。兵士は事前通知もなく10分以内に離れる準備をしその後用意された貨物車に乗るように伝えられた。彼らは重火器を放棄し、分離派の手に渡らないように弾薬を破壊した。兵士の乗車が終わった後、戦車と装甲車などを含む約2000人の兵士の隊列が都市からの退却を開始した 。ヘッドランプは分離派の注意を寄せ付けないように消灯したままにされた。これらの準備にも関わらず、車列はすぐに分離派勢力による全方面からの発砲を受けたことで車両は壊れた。1人の兵士は分離派が「戦車やRPG、スナイパーライフルで撃ってきた」とし、隊列は「崩壊していた」と語った 。多数の兵士が自らの車両を放棄し徒歩で進むことを余儀なくされた。死者や負傷兵は避難することが不可能であったため後に残された 。撤退は1日前に主張されていた政府軍のLohvynoveの支配が実際はできていないという事実によって混迷を極めた。ドンバス大隊のセミョン・セメンチェンコ大隊長は「Lohvynoveに関する全ての話はおとぎ話でしかないことがわかった」と語った。日が経つにつれデバルツェボを離れてきたボロボロになったウクライナ兵達がルハーンシクに到着した 。ニューヨークタイムズはウクライナ軍が「装備と人命両方において重大な損失を被った」と報じた 。デバルツェボは15:00 (EET)までに沈静化した。ノヴォロシアの旗がウクライナの旧作戦基地の上に掲げられた。分離派の当局者は数百人のウクライナ軍を捕虜にしていると述べた。ウクライナの当局者はAFP通信に対し、避難中に「本格的な市街戦が継続しており、小規模な戦車戦もあった」と話した。 ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は撤退は「計画され組織だった」ものであるとし、この秩序ある撤退はデバルツェボがウクライナの支配下にあることの証明であり「包囲は無かった」と述べた。しかし、地上兵はポロシェンコ大統領の説明に異議を唱えており、一部の兵士は「実際は待機するように言われた」とし「閉じ込められたまま死ぬために残っていた」と述べた。彼らはウクライナ政府とメディアがデバルツェボの状況について「嘘」を繰り返しており、ウクライナ軍は一週間以上包囲されていると語った 。先のイロヴァイスクの戦いでの分離派の包囲から生還したウクライナ軍のYuriy Prekharia中尉は、ビクトル・ムジェンコ参謀総長が同じミスを繰り返したことで軍が支援無しの状況に追い込まれたと語った。彼は「指揮官達は包囲される脅威が明らかになったら直ちに突破し撤退する命令を下すべきだった」と述べた。指揮官のセメンチェンコも以下の様に述べた: 「問題は指導力と行動の調整だった。彼らはプロパガンダの嵐で隠蔽しようとしているが、現在起きていることは我々の軍の無能な統率の結果だ」。ポロシェンコ大統領は2月18日の終わりまでにデバルツェボから約2500人が撤退し、この数字は市内にいたウクライナ軍の80%に相当すると述べた 。公式な報告では、撤退中に兵士13人が死亡し、157人が負傷したと述べた。上記のように地上兵達はこれらの数値はかなり不正確であると批判し、死者数は「明らかに数百人」だったと語った。二週間後、撤退中の公式の死傷者数は死者19人、行方不明者12人、捕虜9人、負傷者135人とされた。分離派のリーダーのデニス・プシーリンは戦闘全体を通してウクライナ兵約3000人が死亡したと述べた。一方でウクライナ政府筋によれば戦闘中に兵士185人が死亡し、112人が捕虜となり、81人が行方不明になったと報じた。ウクライナ軍の死者数は後に行方不明者の多くが遺体で発見されたことで267人に修正された。分離派のリーダー達はまた、ウクライナ軍が撤退中に残していった大量の重兵器を鹵獲したと語った。 2月19日、一部の兵士はデバルツェボに閉じ込められていたが、先に脱出していた兵士達は閉じ込められた仲間を救出するのを禁じられていたと語った。分離派勢力は2月20日にChornukhyne、Ridkodub、NikishyneとMiusの村を占領したことでデバルツェボ地域からウクライナ軍の最後のポケットを排除した。 2月27日、国際連合人道問題調整事務所(OCHA)の報告によれば、DPR当局は戦闘後にデバルツェボの住宅と地下室で民間人500人の遺体を発見したという。市中心部のほぼ全ての建物が戦闘により破壊されたか重大な損傷を受けていた。
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