ウクライナ軍の撤退と虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 01:40 UTC 版)
「イロヴァイスクの戦い」の記事における「ウクライナ軍の撤退と虐殺」の解説
8月29日早朝、イロヴァイスクが包囲されてから数日後、市内にいるウクライナ軍の指揮官たちは、反政府軍に対して撤退交渉を試みた。ロシア大統領ウラジミール・プーチンは、「包囲下のウクライナ軍兵士のための人道回廊」が確立され、兵士たちの撤退を許すべきであると発言した。 ドニプロ-1大隊の指揮官ユーリ・ベレザはそのような回廊を確立するために早急に合意に達するように奮闘した。ドネツク人民共和国首相アレクサンドル・ザハルチェンコは、ウクライナ軍が装甲車両と弾薬を残置するという条件で合意が成立したことを確認した。 8月29日午前6時、ウクライナ軍の60両の車両縦隊がイロヴァイスク市外へ移動を開始した。午前8時、ウクライナ軍はイロヴァイスクの直ぐ南のMnohopillya村の北部と南部で二つの縦隊を作り、撤退を準備した。北部の縦隊は、第17戦車旅団、第51機械化旅団および警察部隊から成り、戦車4両、何両かの歩兵戦闘車、1,000名以下の人員を含み、ルスラン・コムチャック中将に率いられた。南部の縦隊は、第93機械化旅団およびドンバス大隊から成り、鹵獲したロシア軍のT-72B3戦車を含む戦車2両、歩兵戦闘車2から3両、人員約600名を含み、オレクシィ・グラホフ大佐に率いられた。撤退準備を進める中、ロシア軍の指揮官がウクライナ軍に対して、全ての武器を引き渡し、義勇兵大隊を残していくように要求、合意条件を変更しようとした。イロヴァイスクのウクライナ軍指揮官のルスラン・コムチャック中将は以前の合意に基づき部隊は撤退すると述べ、「完全戦闘状態で行進する」ことを部隊に命じた。縦隊の先頭のトラックは死傷者を乗せ、白旗を掲げていた。 北部の縦隊は回廊に沿って約1時間で10キロメートル前進したとき、ロシア軍と反政府軍に取り囲まれた。Oleksandrivka村でロシア軍第21自動車化旅団のT-72BA戦車2両と歩兵戦闘車1両がウクライナ軍との衝突で破壊された。クラスナヤ・ポリヤナ渓谷(Krasnaya Polyana)の近くで、ロシア軍は迫撃砲と重機関銃による攻撃で、北部の縦隊を二つに分断した。後方の梯隊は6両の歩兵戦闘車と警察部隊の多数の車両が破壊され、部隊は全滅した。その間、先頭半分の戦車を含む縦隊はノボカテリニフカ村(Novokaterynivka )へ前進し始めた。その渓谷には、ロシア軍第1065砲兵連隊のD-30 122mm榴弾砲が配置されていた。連隊のトラックは砲兵陣地の近くで破壊された。縦隊先頭の装甲車がノボカテリニフカ村に到着したとき、第17戦車旅団の戦車乗員は掩体に配置されている何両かの戦車と歩兵戦闘車を発見した。衝突が起こり、ウクライナ軍の4両の戦車と歩兵戦闘車が破壊された。何人かの乗員は脱出し、42人のウクライナ軍兵士がその包囲を抜け出して、ウクライナ軍陣地に到達できた。 南部の縦隊において、ウクライナ軍兵士約300名とドンバス大隊の兵士はチェルヴォノシルケ村(Chervonosilske)に到達することができたが、その間に幾つかの歩兵戦闘車が失われた。その村で、ウクライナ軍部隊はロシア軍第6戦車旅団のT-72B3戦車2両を鹵獲し破壊するとともに、ロシア軍第31空中攻撃旅団の空挺兵2名を捕虜とした。ウクライナ軍の半分の兵士は既に負傷していたが、翌日までに何とか村を確保した。 8月30日、ドニプロ-2大隊長ユーリ・ライセンコはロシア軍指揮官との接触を試みた。それにより、ウクライナ軍は武器を引き渡し、赤十字ガイダンスに基づき負傷者を後送し、ロシア人の捕虜を解放することが合意された。 9月1日、内務大臣アーセン・アヴァコフによれば、97名のウクライナ軍兵士が何とかイロヴァイスクを脱出した。
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