ウクライナ軍の反攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:31 UTC 版)
「ソビエト・ウクライナ戦争」の記事における「ウクライナ軍の反攻」の解説
5月7日、ソビエト軍がポジーリャへ乱入。5月24日、ウクライナの執政内閣はポーランド軍と和議を結び、7月16日にウクライナ軍が反撃を開始し、ソビエト軍をポジーリャから追い出す。その後ウクライナ軍は反攻し、8月12日にヴィーンヌィツャを、8月21日にはジトーミルを、8月31日にはキエフを解放する。 1919年8月、デニーキンの白軍が侵攻し、赤軍はウクライナ東部から撤退した。その間、ドニエプル川西部にウクライナ人民共和国が再建された。 10月2日、モスクワはウクライナソビエト政府を解散させ、ボリシェビキは、ウクライナ支配の失敗の原因をウクライナの民族主義にみた。
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