ウクライナ革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:27 UTC 版)
現代のウクライナ海軍の創設記念日とされるのが、クリミア半島にあった黒海艦隊の艦船や要塞、港湾施設などのほとんどがウクライナ国旗を掲げた1918年4月29日である。それ以前にも1917年のロシア革命以降、黒海艦隊では散発的にいくつもの艦船がウクライナ国旗を掲げるという状況が生じていた。この現象は黒海艦隊に留まらず、バルト艦隊、シベリア小艦隊、カスピ小艦隊、アムール小艦隊、北氷洋小艦隊でいくつかの艦船がウクライナ国旗を掲揚していた。そのうち、一部の艦船については第一次世界大戦終結後の黒海への回航がロシア臨時政府より約束されていた。しかしながら、それらの運動はまだ体系的にウクライナ国家に属するものではなかった。十月革命後にウクライナ人民共和国が成立すると、黒海艦隊では旗艦ヴォーリャをはじめとするウクライナ国旗を掲げた「ウクライナ化」された艦船とトリー・スヴャチーチェリャをはじめとする「赤化」された艦船とのあいだで対立が深まった。1917年12月に赤軍がウクライナに侵攻してクリミア半島とそこにあった艦隊を掌握すると、ウクライナ人組織は強制的に解散させられ、すべての艦船と要塞、港湾施設が赤旗を掲揚した。従って、1918年1月14日にウクライナ中央ラーダが全黒海艦隊がウクライナ人民共和国に属するとする「ウクライナ人民共和国海軍に関する臨時法」を採択したとき、実際には同国は艦隊を完全に奪われた状態であった。ブレスト=リトフスク条約を契機にウクライナがクリミアを奪還し、1918年4月29日には艦隊司令官の名の下、全黒海艦隊にウクライナ国旗が掲揚された。このとき、一部の艦船は赤軍基地のあったノヴォロシースクへ退去した。 しかしながら、その後ブレスト=リトフスク条約の付帯事項に基づいてドイツ帝国軍がクリミアを占領すると、5月には全黒海艦隊はドイツの管理下に置かれることとなった。ウクライナ国旗は降ろされ、かわりにドイツの国旗が掲揚された。6月から段階的に艦船がウクライナへ返還されたが、ドイツの撤退まですべての艦船がウクライナへ戻ることはなかった。主力艦ヴォーリャなど一部の艦船は、ドイツの旗の下、イスタンブールなどまで遠征した。ドイツによるウクライナ国の承認に伴い、6月2日からセヴァストーポリにおいて2 隻の旧艦隊装甲艦がウクライナへ返還され、そのうちゲオルギー・ポベドノーセツにウクライナ国海軍の司令部が設置された。9月1日には、艦隊水雷艇1 隻がセヴァストーポリにてウクライナ国海軍へ引き渡された。9月17日には新型を含む17 隻の潜水艦がウクライナ国海軍に引き渡され、セヴァストーポリにて潜水艦戦隊を編成した。 11月まで実質的にウクライナ国海軍の主力となったのがオデッサに根拠地を置いたドナウ小艦隊で、6月6日に編成された掃海戦隊は2 隻の航洋砲艦と24 隻の掃海艦艇を擁した。また、航洋砲艦1 隻が小艦隊司令部艦としてオデッサにて使用されていた。そのほか、シュトィーク級装甲艇4 隻とレヴェンスキー工場製の装甲艇が10 隻程度使用されていた。ウクライナ国海軍に所属した艦船の活動は不活発なものに抑えられたが、1918年7月6日にはドナウ小艦隊がドナウ川河口において掃海作戦を実施し、これが近代史上初のウクライナ艦船による実戦任務となった。 6月17日にはまた、ノヴォロシースクに逃れていた艦船のうち、ヴォーリャをはじめとする9 隻の艦船がクリミアへ帰還し、それら艦船によってウクライナ国と第一クリミア地方政府の合同艦隊である同盟クリミア=ウクライナ海軍が編成された。その艦船には、ウクライナの旗とドイツの旗が並んで掲揚された。 これらに加えて、各地の工場にあった42 隻の艦船が5月にウクライナ国へ引き渡された。その中には、弩級戦列艦デモクラーチヤと修理中のインペラトルィーツャ・マリーヤそれに4 隻のアドミラール・ナヒーモウ級巡洋艦が含まれていた。 このほかに、11月にはドニプロー小艦隊とピンシク小艦隊という2つの河川小艦隊が編成された。これらの小艦隊は、装甲艇や大型自走艀を保有していた。 1918年11月11日にはドイツが降伏し、ウクライナから撤退することになった。これに際して黒海艦隊艦船のすべてはウクライナ国へ譲渡された。しかし、11月24日にはイギリス・フランスをはじめとする連合国軍が進駐し、艦隊を接収した。1919年には艦隊は一部は白軍に、一部は赤軍の手に渡った。 1918年12月にウクライナ国が倒れ、再興されたウクライナ人民共和国も戦争に敗れて亡命し、ウクライナは共産主義系のウクライナ社会主義ソビエト共和国の領土に収まることになった。そうした中、黒海艦隊は1920年5月には労農赤色海軍に属する黒海・アゾフ海海軍となり、同年12月10日にはウクライナ社会主義ソビエト共和国とクリミア自治ソビエト共和国の軍隊であるウクライナ・クリミア軍の下に収められた。しかし、ソ連が結成された関係で1922年6月3日付けでウクライナ・クリミア軍は解隊され、黒海・アゾフ海海軍はソ連の労農赤色海軍の一構成艦隊となった。こうしてウクライナは独自の海軍を喪失したが、1960年代頃までソ連海軍の黒海艦隊では大多数の構成員がウクライナ人であった。 一方、ウクライナ国外で存続した亡命ウクライナ人民共和国政府はその後もずっと艦隊の保有を主張し、海軍組織を保ち続けたが、それは様式的なものに過ぎなかった。亡命以降、ウクライナ人民共和国政府が実際に艦船を保有することは一度もなかった。
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