南ロシア軍統治下の南ロシア
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「南ロシア」の記事における「南ロシア軍統治下の南ロシア」の解説
南ロシアの統治形態は軍事独裁であり、著名な M・V・アレクセーエフ将軍、 L・G・コルニーロフ将軍、 A・I・デニーキン将軍、 P・N・ヴラーンゲリ将軍がその最高権力者を歴任した。民生部門の統治機関は、1918年8月31日にエカテリノダールで組織された義勇軍(ロシア語版)総司令官付属特別委員会(のち南ロシア軍総司令官付属特別会議(ロシア語版))、1919年12月30日にノヴォロシースクで組織された南ロシア軍総司令官付属政府、1920年3月にノヴォロシースクで組織された南ロシア政府であった。 南ロシアの全盛期には、その支配域を左岸ウクライナや北カフカース、クリミア半島、ヴォルガ川下流域にまで広げた。南ロシア政府はしばしばコサック共和国や山岳民族の分離主義と対峙せねばならず、その政体はまったく不安定であった。さらに、君主制主義者や社会革命党員との闘争もうまく乗り切らねばならなかった。南ロシアの外交は、連合国への指向で語ることができる。その敵対勢力は、ボリシェヴィキに加え、ネストル・マフノに率いられたウクライナの無政府主義者のウクライナ革命蜂起軍、そしてウクライナ人民共和国のディレクトーリヤ軍、グルジアの独立勢力らであった。 その後、戦局の悪化により白軍は南ロシアを追われ、クリミアへ立て籠もった。政府組織は、1920年にセヴァストーポリで組織されたロシア南部政府(ロシア語版)によって引き継がれた。
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