南ロシア史研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:14 UTC 版)
「ミハイル・ロストフツェフ」の記事における「南ロシア史研究」の解説
1900年頃から新発見の碑文を雑誌に紹介していたが、1914年から18年の第一次世界大戦期に、毎年平均5本ぐらいのペースで南ロシアの発掘報告や論文を発表している。そのまとめとして、のちに『Skytien und Bosporus,1931』として公表される本の原稿が書かれた。亡命後、思うようにロシアにある博物館の資料を使えないというハンディを負いながら、イギリスやフランスで執筆しアメリカで校正した『古代の南露西亜 Iranians and Greeks in South Russian,1922』もまた、祖国の革命と無政府状態を憂いつつ書かれた、ロストフツェフが失意の時期の著述である。 これらの古代ロシア研究の目的は、「一般の世界史において南ロシアが演じた役割を確定し、人類の文化に対する南ロシアの貢献を強調しよう」とする野心的な、ある意味ではナショナリスティックな試みであった。東方と西方の影響力がせめぎ合う、ロシアの地理上の特殊な条件は、紀元前のキンメリア人・スキタイ人・サルマタイ人にも働いていた。ロストフツェフは墳墓の装飾品・葬法などの考古学上の事実から、ドニエプル川とドン川の流域ではギリシアの影響は二次的なもので、むしろイランなどの東方からの潮流がこの地方文化の主たる源であったと推論した。その結論やドニエプル流域でのロシア国家起源説よりも興味深いのは、彼の関心が黒海沿岸のギリシア都市から南ロシアにおけるイランの要素、スキタイやサルマタイなどの遊牧民とその特異な美術様式である動物文様へと広がることであり、これは後には漢代の中国における雲紋・象嵌装飾の研究、近東での発掘事業へと至る。単なる古代史家ではなく、好古家でもない大胆で疲れを知らない探求の精神がロストフツェフをユニークな存在としていることを、この時期の一連の著作によって知るのである。
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