南ロシアへの脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:38 UTC 版)
「タシュケント (嚮導駆逐艦)」の記事における「南ロシアへの脱出」の解説
1942年6月27日、タシュケントは艦上に2300名の負傷者と難民、そしてフランツ・ルボー(英語版)のパノラマ画「セヴァストーポリ包囲戦(ロシア語版)」を載せ、母港セヴァストーポリを捨て南ロシアのノヴォロシースクを目指す艦隊の最後尾を進んでいた。86機のドイツ空軍機が1時間余りに渡り艦を追撃し、336発の爆弾を投下した。巧みな機動によりタシュケントは直撃弾から逃れることに成功した。しかし至近弾の爆発により舵が動かなくなり、第1ボイラー室が水没した。 艦の支援のため、司令部は1組のPe-2を派遣した。この2機の高速爆撃機はドイツ空軍機を駆逐し、その間に駆逐艦ソオブラジーテリヌイとブジーテリヌイがノヴォロシースクからの脱出に成功した。これらの艦に傷病兵や難民を移したタシュケントは、自力でノヴォロシースクのツェメスカヤ・ブーフタまで到達した。この英雄的行為に対し、のちにタシュケントの全乗員に国家賞が送られ、指揮官エロシェンコとG・A・コノヴァーロフ1等大佐にはレーニン勲章が与えられた。 1942年7月1日、タシュケントはカフカース前線の指揮官S・M・ブジョーンヌイ将軍の訪問を受けた。将軍は、乗員の前で「このような戦士たちこそ、我々の軍の誇りである」と演説した。そして、将軍は「親衛」の名誉称号をタシュケントに与えることを自ら申請しておこうと約束した。 しかしその翌日、艦の命運は突如として尽きることとなった。7月2日正午近く、エレヴァートルヌイ係船場に停泊中であったタシュケントを敵機が不意打ちしたのである。Ju 88から投下された2発の命中弾が、タシュケントの息の根を止めることとなった。乗艦していた344名のうち、76名が戦死、77名が負傷した。そして、艦は埠頭脇に着底した。
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