アメリカ軍による住民の保護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
「サイパンの戦い」の記事における「アメリカ軍による住民の保護」の解説
サイパンの戦いは、アメリカ軍が太平洋戦線では初めて多数の民間人と遭遇した戦場となり、アメリカ軍自体、日本人住民がどのような行動に出るのか全く予想ができていなかった。上陸前には海兵隊員に対して、反撃してこない民間人に危害を加えたり、所持品を奪ってはいけないとする国際法規を遵守し、可能な場合は生きて捕らえるよう警告している。しかし、アメリカ軍は日本人民間人を生きて捕らえることについてはさほど熱心ではなく、日本人に投降呼びかけを行うため、日本語に堪能な兵士で特別部隊を編成して前線に送りはしたものの、資金や物資的な手当ては殆どされておらず、投降を呼びかけるビラについては、印刷費を軍が支出することはなかったので、やむなくハワイの新聞が印刷費を負担してくれたり、投降を呼びかける拡声器についても予算がつくことはなく、特別部隊の兵士たちが自分たちが受け取る予定であった個人的な手当を流用して購入していた。 以上のように、アメリカ軍の組織的な努力というよりは、日本語が堪能な兵士たちの献身的な活動によって、戦闘終了後にアメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容している。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。戦闘終了後しばらく経ってから投降した日本人民間人も多く、ガラパンの副総代であり、サイパンの沖縄県人会会長松本忠徳の記録によれば、1945年4月時点のサイパンでの沖縄出身者の生存者は11,374人(49人の新生児を含む)と他県出身者約1,000人の約12,374人となっている。アメリカ軍によれば、日本人民間人の死者は約8,000人で、研究者のなかには、日本人と朝鮮人の死者は12,000人にもなり、住民の死亡率では沖縄戦を超える最悪のものになったという指摘をする者もいる。 その後も民間人の投降が続き、終戦後しばらくして投降した民間人も多かった。引き続き、日本語が堪能な兵士による個人的な努力も続いており、メキシコ系アメリカ人で子供の頃に日系人と交流があり日本語が堪能であった海兵隊員ガイ・ガバルドン(英語版)は、その小柄な体格と流ちょうな日本語を活かして、立て籠もる日本兵や日本人民間人の自決を思い止まらせて投降させた。捕虜を取ることを好まなかったガバルドンの上官は軍法会議にかけると脅したが、ガバルドンは臆することなく捕虜を取り続けたので、ついに上官も認めざるを得なくなった。日本軍の組織的抵抗終了後もガバルドンは活動を継続し、説得に応じて投降した人数は1,000人以上にもなったという。ガバルドンはハーメルンの笛吹き男の故事に因んで「サイパンのパイドパイパー(笛吹き男)」とも呼ばれて、その活躍で海軍十字章を受賞している。また、「サイパンのジャンヌ・ダルク」こと菅野の夫であり、アメリカ軍で通訳業務をしていた菅野伊佐美が終戦後にアメリカ軍の要請で、バガン山に立て籠もっていた1,400人の日本軍将兵と2,000人の日本人民間人を説得して投降させており、最終的にアメリカ軍が収容した民間人は現地チャモロ人等も含めて約18,000人となった。
※この「アメリカ軍による住民の保護」の解説は、「サイパンの戦い」の解説の一部です。
「アメリカ軍による住民の保護」を含む「サイパンの戦い」の記事については、「サイパンの戦い」の概要を参照ください。
- アメリカ軍による住民の保護のページへのリンク