アメリカ軍による市の占領
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「ヴェルトハイム」の記事における「アメリカ軍による市の占領」の解説
1945年1月、ヴェルトハイムはイギリス軍により空爆を受けるはずであった。この時は天候の悪化で飛行機は引き返さなければならなかった。だが同じ年のイースターの週末に市は戦争と直面することとなった。3月24日の朝4時頃、ヴェルトハイムのアルブレヒト・エングラートは西部戦線総司令官のアルベルト・ケッセルリンク元帥の無線通信を受信した。「フランクフルト・アム・マインからオクゼンフルトまでのすべてのマイン川渡河地点は砲弾の用意をし、接近する敵軍を駆逐せよ」というものであった。さらにアシャッフェンブルク - ミルテンベルク - ヴェルトハイム - エーバーバッハのラインには「可及的速やかに防衛陣地を造営せよ」そして「この地域に入る急行軍と合流せよ」との命令が下された。 続く枝の主日に低空飛行の米軍飛行部隊が初めてこの街に飛来し。NSDAPの地区指導者ヘルマン・シュミットによるヒトラーユーゲントの行事を妨害した。この威嚇の際に「皆さん、路地に避難して下さい」と呼びかけた。敵機の襲来は翌日も引き続き行われた。 3月27日火曜日、現在のギムナジウムに相当する青年上級学校が戦争のために閉鎖され、ここに軍司令所が設けられた。アイヒェル水門付近の全船舶はその日のうちに退去するよう命令された。 3月30日、近隣のナッシヒが米軍の攻撃を受け、夕方には戦車警報がヴェルトハイムに発令された。23時頃に丘の上に達した戦車からマイン川右岸に向けて3、4発の砲弾が発射され、その後ラインハルツホーフの空軍基地がドイツ駐留部隊によって一部爆破された。続いて3時から4時の間にマイン川に架かる道路橋と鉄道橋も爆破された。市の砲撃は翌土曜日も散発的に続けられ、午後には市の守備隊に対する勧告がなされた。 ナッシヒ占領後、第42歩兵部隊を伴った米軍第12戦車部隊は復活祭の日曜日にヴェルトハイム周辺を占領した。1945年4月1日の日曜日に、都市防衛のために国民突撃隊を参集させようという試みがなされた。同じ日の午後にタウバー川に架かる道路橋が爆破された。しかし橋は 2 m 程度の亀裂ができただけだったので、引き続き通行することが可能だった。この時点ですでに米軍戦車はヴァルトベルクにまで迫っており、この市を通ってマイン渓谷方面を封鎖した。教区監督のハインリヒ・シェーファーはヴェルトハイムのプロテスタント教会の死亡録に、アイヒェルの砲撃で4人のドイツ兵が死亡し、1人が重傷を負ったとメモした。 焼夷弾による被害を目の当たりにしたアントン・ディンケルとハインリヒ・ヘルツは市長に城の主塔に白旗を掲げるよう要求した。議論がなされ、市長が退任した後、16:25に白旗が揚げられた。これによりヴェルトハイムの砲撃は停止された。ディンケルとヘルツの発議を讃えて2005年に城の中に記念プレートが掲げられた。
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