アメリカ球界における経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:13 UTC 版)
「レフティ・オドール」の記事における「アメリカ球界における経歴」の解説
サンフランシスコのベイビュー高校卒業後、ニューヨーク・ヤンキースと契約。当初は投手であった。当時左投げ投手は珍しく、「レフティ(左利き)」のニックネームをつけられた。1919年にメジャー昇格。その後、1923年にボストン・レッドソックスに移籍したシーズンまで実働4シーズン投手としての記録が残っている。しかし、彼の打力に注目した首脳陣は、投手ではなくオドールを野手として起用するようになる。 投手を断念してから数シーズン、オドールはレッドソックスやニューヨーク・ジャイアンツのAAA級でくすぶっていたが、1928年に初めて規定打席に達して打率3割をマーク。翌1929年にはフィラデルフィア・フィリーズに移籍して打率.398をマークし首位打者を獲得、打撃に開眼する。その年マークした254安打はナショナルリーグ記録であり、両リーグ合わせてもイチロー、ジョージ・シスラーに次いで史上3位。 ブルックリン・ロビンスに移籍した1931年も打率3割をキープ、さらには1932年には2度目の首位打者に輝くなど5年連続打率3割をマークした。1932年には、全日本大学野球連盟の招きで、モー・バーグ、テッド・ライオンズとともに来日、東京六大学野球連盟に属する各大学で野球を教えた。その後は出場機会は減少。1933年に再度ニューヨーク・ジャイアンツに復帰し、同年のワールドシリーズ制覇。1934年のシーズン限りで引退。 引退後、1935年から23年間にわたって、マイナーリーグベースボールのパシフィックコーストリーグ(AAA級)で監督を務めた。その内訳は、サンフランシスコ・シールズ(1935年 - 1951年)、サンディエゴ・パドレス(1952年 - 1954年)、オークランド・オークス(1955年)、バンクーバー・マウンティズ(1956年)、シアトル・レニアーズ(1957年)である。シールズでは1935年と1943年から1946年までとリーグ優勝を遂げている。 ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移転すると、オドールは1958年から1961年まで臨時の打撃コーチを務めた。 シールズの監督時代、選手の一人に若き日のジョー・ディマジオがいた。後年、ディマジオがニューヨーク・ヤンキースの大選手になったあと、オドールは「ディマジオを自分の功績にしないでほしい。気を利かせて放っておいただけだから」とコメントしたが、これは謙遜によるものだった。ジャイアンツの臨時コーチ時代にはウィリー・マッコビーも指導している。 晩年は野球界から去り、サンフランシスコのゲイリー大通りという目抜き通りにレストラン兼スポーツバーを出店、1969年にこの世を去るまでサンフランシスコを離れなかった。この店は今もなお「レフティ・オドールのレストラン&カクテルラウンジ」として営業を続けている。野球選手としては流浪の選手であったが、生粋のサンフランシスコ人であったといえる。その功績をたたえて、1981年にはサンフランシスコ・ベイエリアにゆかりのスポーツ関係者を対象とした「ベイエリアのスポーツ殿堂」(Bay Area Sports Hall of Fame)に表彰された。また、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地オラクル・パークの近くの入り江「マッコビー・コーブ」にかかる橋には「レフティ・オドール橋」という名前が付けられている。
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