オークランド・オークス
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オークランド・オークス(Oakland Oaks)はアメリカ合衆国に存在したABAのバスケットボールチームである。代表的なオーナーに、歌手のパット・ブーンがいる[1]。
オークランド・オークスは、ABA設立時の当初からの参加チームであり、1967年-1968年シーズンと1968年-1969年シーズンの2年間ABAに参加した[1]。チームカラーは緑と金であった[1]。オークスで最も有名なことはNBAのサンフランシスコ・ウォリアーズ(現在のゴールデンステート・ウォリアーズ)との間のスタープレイヤー リック・バリーの契約問題だった[1]。新人王を獲得して1966年-1967年シーズンにチームをNBAファイナルまで導いたバリーは契約でもめて1967年-1968年はどこのチームとも契約せずに、この年、オークスに加わった。またヘッドコーチには、バリーの義理の父親でマイアミ大学のヘッドコーチを務めたことのあるブルース・ヘイルが就任した[1]。
2シーズン目の1968年-1969年シーズンは、フィラデルフィア・セブンティシクサーズのヘッドコーチだったアレックス・ハナムが新ヘッドコーチに就任、チームはニューオーリンズ・バッカニアーズに14ゲーム差をつけて、西地区で優勝、プレーオフ初戦のデンバー・ロケッツ戦は4勝3敗で勝利、ニューオーリンズ・バッカニアーズを破った後、怪我でバリーを欠いたものの、インディアナ・ペイサーズを4勝1敗で破りABAチャンピオンとなった[1]。この年、バリーの他にシーズン中にトレードで加入したラリー・ブラウン、ダグ・モーがオールスターに選ばれた[1]。
バリーがいてもいなくても、NBAのサンフランシスコ・ウォリアーズが原因でオーナーたちの投資を満足させるには至らなかった。2シーズン目も観衆は1試合あたり約2,800人しか入らなかった。オーナーのブーンは巨万の富を失い、チームをアール・フォアマンに売却し、チームは2800マイル離れたワシントンD.C.に移転[1]、1969年-1970年シーズンはワシントン・キャピトルズと改称した。1シーズンを首都ワシントンで戦った後、1970年-1971年はバージニア州のノーフォークにバージニア・スクワイアーズと名前を変えた。その後、チームは1975年-1976年シーズン終了後に解散した。
1962年にもABLにオークランド・オークスという名前のバスケットボールチームが参加していた。
1971年、サンフランシスコ・ウォリアーズがオークランドに移転、ゴールデンステート・ウォリアーズと改称した。同チームは1975年のNBAファイナルで優勝した[2]。
脚注
オークランド・オークス (1968-1969)
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「リック・バリー」の記事における「オークランド・オークス (1968-1969)」の解説
バリーがオークスとサインしてもなお、ウォリアーズはバリーの存在を諦め切ることができなかった。ウォリアーズは法廷闘争に打って出て、バリーをオークスの試合に出場させないよう訴えた。法廷は保留条項の有効性を支持し、結局バリーは1967-68シーズンをプレーすることができなかったが、バリーが意志を曲げることはなく、彼は解説者としてオークスの試合に参加した。なお、バリーが移籍を決めた大きな要因となったブルース・ヘールは本来エースとなるはずだったバリー不在という状況下で指揮する羽目になってしまい、このシーズンを22勝56敗と大きく負け越し、シーズン終了後に解任されてしまった。皮肉にもバリーがヘール指導のもとでプレーすることはなかった。 1968-69シーズン、ついにバリーがABAの舞台に上がる。ヘールの後任には名将アレックス・ハナムが就き、陣容が整ったオークスは最初の17試合で15勝2敗の成績を収めた。バリー自身も平均34.0得点9.4リバウンド3.6アシスト、リーグ1位となるフリースロー成功率88.8%を記録し、ABAが望んだリーグの広告塔としての役割を完遂するかに見えた。しかし12月27日のニューヨーク・ネッツ戦でケニー・ウィルバーンと衝突し、膝の靭帯を切断する大怪我を負い、以後欠場を強いられる。まだ傷の癒えない1月に強行復帰をしようとしたが怪我は悪化し、欠場が長引く羽目となった。結局このシーズンは35試合の出場に留まったものの、今後4年連続で選ばれ続ける事になるオールスターとオールABA1stチームに選ばれている。一方ウォーレン・ジャバリやダグ・モウ、ラリー・ブラウンら好選手を揃えていたオークスは、バリーの欠場後も16連勝を飾るなど勢いを失うことなく、最終的には前年の約3倍となる60勝18敗、リーグ2位のニューオーリンズ・バッカニアーズに14ゲーム差をつける圧倒的な成績を収めた。バリーはプレーオフにも間に合わなかったが、オークスはデンバー・ロケッツ、バッカニアーズを降してウエスタン・デビジョンを制すると、ファイナルではジョージ・マクギニス擁するインディアナ・ペイサーズを破り、優勝を果たしてしまった。 このシーズンの成功にも関わらず、バリーというスター選手がシーズンの大半を欠場したオークスのホームアリーナは空席が目立ち、1試合の平均観客動員数は約2,800人程度だった。資金繰りが悪化したオークスは優勝直後に売却され、ワシントンD.C.の弁護士、アール・フォアマンの手に渡った。フォアマンはフランチャイズをオークランドからワシントンへと移す計画を進めるが、バリーは西海岸から東海岸への移動を拒否。ロサンゼルス・タイムズ紙の記者の前で「もしワシントンに行きたいのなら大統領にでも立候補してるさ!」と言い放った。そしてベイエリアのスターを取り戻そうと躍起になっていたウォリアーズのオーナー、フランクリン・ミューリーと5年100万ドルという大型契約を結んだ。しかしオークス所属のバリーが結んだこの契約は再び法廷闘争へと発展し、法廷はバリーにオークスに戻るよう命じたため、結局バリーはワシントンに向かわなければならなくなった。ワシントンに本拠地を移したオークスは、ワシントン・キャップスと改名された。
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