田代の売薬習俗とは? わかりやすく解説

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田代の売薬習俗

名称: 田代の売薬習俗
ふりがな たしろのばいやくしゅうぞく
種別1: 風俗習慣
保護団体名:
選択年月日 1995.12.26(平成7.12.26)
都道府県(列記): 佐賀県
市区町村(列記): 鳥栖市基山町
代表都道府県 佐賀県
備考
解説文: 現在の鳥栖市と三養基【みやき】郡基山【きやま】町にまたがる旧対馬藩田代一帯は、かつては越中富山の薬売り並び九州一円から中国・四国一部までを得意場とする家庭用配置売薬業栄えた地域である。田代瓜生野両町中心に売薬行商が行われ、売薬人は「田代売薬」あるいは「対馬薬屋さん」とよばれた
 売薬とは医師処方によって調合するものでなく、前もって調合しておいて一般に販売するをいうが、かつては民間薬一般広くこのようによんでいた。わが国売薬古く神官僧侶修験者などが、家伝秘方神仏託宣などの名目発売するものが多かったが、江戸時代には独自の発達遂げた享保年間幕府によって薬草栽培が行われるようになり、各種医薬書が出版されるうになる売薬種類増加した田代領には、対馬藩との関係から早くから朝鮮薬種医薬品製造知識伝わっていたようで、こうしたこともこの地に売薬業発達させる要因となっていたと考えられる
 田代売薬起源不明であるが、残され記録から宝暦年間一七五一一七六三)にはすでに売薬行商が行われていたことがわかる。これに先立ち九州にはすでに富山の売薬人が入っていた。田代代表的な売薬朝鮮名奇応丸であるが、この製法朝鮮から学び富山の売薬から配置法を学んで各地広めた伝えられている。田代売薬はその当初から、富山の売薬影響の下に発達していったのである田代売薬制度確立するのは天明から寛政年間のことであった売薬人は富山の売薬人に互して販路拡大し幕末期には薩摩を除く九州各地と、中国・四国一部にまで得意先広げていた。しかし、明治に入ると一時沈静時期入り、この時期田代売薬家内工業から工場制手工業へと転換しつつあった。
 明治三十年代になると、従来漢薬から洋調剤による新し登場したり、丸薬製造専門業者現れるようになったまた、明治三十七、八年頃には田代製薬業の手で、ロールによる延膏薬【のべこうやく】の製造法開発され量産が可能となって、延膏薬万金膏【まんきんこう】は一躍田代売薬代表的なとなり、「内服薬越中さん、外用薬田代売薬人」といわれるように、膏薬得意の田代売薬確立するのである明治末期から大正初期にかけての時期田代町鳥栖町には次々と製薬会社設立されて、従来売薬業者のほとんどがこれらの会社所属することとなった。なお、大正七年頃から流行したスペイン風邪流行時は、痛み和らげる膏薬売り上げが一層伸びて田代売薬発展大い寄与した。しかし、この景気長く続かず昭和初期恐慌によって売れ行き不振時期迎える。その後第二次世界大戦後には製薬業者の新たな再編が行われ、昭和二十年後半から三十年代前半にかけて戦後家庭配置薬全盛期迎えたが、その後高度経済成長期への移行に伴い家庭配置薬急激に衰微した
 田代売薬富山近江日野大和売薬とともにわが国代表する売薬一つである。



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