その後の発売
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ターナーは「プライヴェト・ダンサー」に続いて「ブレイク・エヴリ・ルール」を1986年に発売する。「ティピカル・メイル」、「トゥー・ピープル」や「ウォット・ユー・ゲット・イズ・ウォット・ユー・シー」といった曲が収録されており、このアルバムは全世界で400万枚を越える売り上げをあげた。アルバムの発売に先立って、ターナーは自叙伝「私、ティナ」を出版した。この自叙伝は後にベストセラーとなり、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を贈られた。ターナーの、ユーロピアン・ブレイク・エヴリ・ルール・ツアーは1987年3月にドイツのミュンヘンで最高潮を迎えたが、このツアーfは、レコードの売り上げとコンサートへの観客動員数に関して記録破りの結果をもたらすことになった。1988年1月には、ポール・マッカートニーと並んで歴史的記録を達成している。というのは、ブラジル、リオデジャネイロのエスタジオ・ド・マラカナンにおいて、入場料を支払って集まった約18万4千人という過去最大の人数の観衆の前で、単独で公演を行ったのである。この公演はターナーのギネス世界記録となった。二つのライヴ・ツアーを成功させたことで、アルバム「ティナ・ライヴ・イン・ヨーロッパ」が制作されることになった。このアルバムは4月に発売された。ターナーはブレイク・エヴリ・ルール・ツアー終了後、時機を待っていた。そして、ターナーの代表曲の一つである「ザ・ベスト」が収録されたアルバム「フォーリン・アフェア」で再びその姿を現した。その後、このアルバムの発売記念ツアーでヨーロッパを回っている。アメリカでは「フォーリン・アフェア」はゴールド・ディスクになり、その中の「ザ・ベスト」と「スティーミィ・ウィンドウズ」はトップ40入りした。また、ターナーが私的に転居した先のヨーロッパでもこのアルバムは大ヒットとなった。 1991年、アイク&ティナ・ターナーはロックの殿堂入りが決定した。フィル・スペクターは後に彼らのために賛成している。同じ91年に、元夫婦は自分達の生き様をドラマ化して半自叙伝的映画「ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」にするという権利を他人に譲渡している。この映画は後に1993年になって公開されたが、ティナ役をアンジェラ・バセット、アイク役をローレンス・フィッシュバーンが演じ、その他アカデミー賞の最優秀女優賞や最優秀男優賞の候補者が共演して、元夫婦とその周囲の人間模様を描くというものであった。ターナーは「ウォッツ・ラヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」をレヴュー時代以来初めて再録音し、サウンドトラックに参加している。また、後にアメリカでトップ10入りすることになる「アイ・ドント・ウォナ・ファイト」など数曲を新たに録音している。ターナーは、サウンドトラックの曲で歌うだけでなく、バセットの衣装選びやダンスの際のステップを教えたりもしたものの、映画に全面的に関わることは拒否している。インタヴューでは、「どうしてアイク・ターナーがもう一度私を叩きのめすところを見たくなるって思うの?そんなこと、もうとっくに忘れたことなのよ。もう全部過去のことなのよ」映画の封切りとサウンドトラックの発売に合わせて、ターナーは7年ぶりのアメリカ・ツアーを開始している。ツアー終了後、ターナーはスイスに移り、以後1年間の休暇を取っている。 1995年、ターナーはU2の曲「ゴールデンアイ」とともに戻ってきた。この曲は同じタイトルのジェームズ・ボンド映画で使用された曲だった。この曲は、ヨーロッパでは大ヒットとなり、また母国アメリカではほどほどの成功を収めたが、結果としてターナーは新しいアルバムを録音することになった。1996年に「ワイルデスト・ドリームズ」が発売された。アメリカ国内では大きな成功を収めたわけではなかったが、ワールドツアーが行われたこと、そしてヘインズがコマーシャルで楽曲を使用したことによって、結局アメリカでゴールド・ディスクとなった。ヨーロッパではプラチナ・ディスクとなり、「ウォットエヴァ・ユー・ウォント」、「ミッシング・ユー」といったアメリカではチャートにごくわすがな期間入っていた曲がヒットした。「サムシング・ビューティフル」、そして官能的なバリー・ホワイトとのデュエット、「イン・ユア・ワイルデスト・ドリームズ」などもヒットしている。1997年にツアーが終わりを迎えたのに続いて、ターナーは1999年にケーブルテレビVH-1の「歌姫達のライヴ99」で再び聴衆の前に登場するまで、再び休息に入ることになる。 1998年、イタリア人ミュージシャンのエロス・ラマッツォッティと「Cose della vita(浮き世の事)」でデュエットを歌い、ヨーロッパでヒットとなった。60歳の誕生日を前に、ターナーは、ダンス音楽そのものである「ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー」を、そしてこの曲を収録したアルバム「24/7(24時間週7日、の意)」をその翌月に発売した。北米では2000年に入ってすぐに、このシングルとアルバムの両方を発売している。「ホエン・ザ・ハートエイク・イズ・オーヴァー」の成功と、アルバム発売記念ツアーの結果、このアルバムはアメリカで再びゴールド・ディスクとなった。24/7ツアーは、現在に至るまでターナーの行ったツアーの中で最も成功したツアーとなり、また同時に、2000年に最も収益を上げた(ポールスターによると、1億ドルを超える売り上げ)ツアーとなったのである。ギネス世界記録は後に、「ティナ・ターナーは単独でのコンサートで、音楽史上チケットの最多売り上げをあげた」と発表した。その後、ターナーは半ば引退することを発表したのである。
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