おもな邸宅と庭とは? わかりやすく解説

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おもな邸宅と庭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「おもな邸宅と庭」の解説

無鄰菴初代) 長州吉田清水山慶応年間1860年代後半)から明治33年(1900)まで使用椿山荘 東京小石川目白台本邸明治10年1877年)にこの地を購入し造営開始し明治11年1878年)に管制作庭岩本勝五郎隣地田中光顕の家があり、親密行き来していた。以後東京本邸として使用され大正7年1918年)に藤田平太郎譲渡山縣農場 栃木県矢板明治19年1886年)、那須広大な第三種官有地払下げを受け移住農家招致し開墾すすめたもの。古希庵伊東忠太設計による木造洋館大正12年1923年)、関東大震災被災のあと養嗣子伊三郎によりこの農場移築され、現在は財団法人山縣有朋記念となっている。山縣自身はほとんど滞在していない。 小淘庵(おゆるぎあん) 大磯別邸明治20年1887年)ごろからの約5,000坪の別邸足関節炎の治療には山より海岸がいいという橋本綱常勧め従ったものだが、伊藤西園寺大隈ら有力政治家別荘隣接し政治的交流の場としても機能した。のちに山縣はこれを三井家譲渡し古稀庵構えた無鄰菴第二京都別邸明治24年1891年)。旧角倉邸。鴨川高瀬川分岐点二条大橋のたもとに位置していた。敷地拡張ができなかったため翌年売却無鄰菴第三京都別邸明治29年1896年完成建物自体完成1895年数寄屋造り母屋藪内流燕庵写し茶室レンガ造り2階建て洋館からなる洋館設計新家孝正明治31年1898年)に竣工。この洋館2階の間は日露開戦直前には「無鄰菴会議」の舞台ともなった作庭七代目小川治兵衛当時35歳で、山縣初め起用した)。 新々亭(さらさらてい) 東京小石川水道町別邸明治40年1907年)。この庭にも流れと池が配置された。「新々亭」という名は山縣詠じた「さら/\と木がくれつたひゆく水の流れの末のとぶみゆ」という歌にちなんだものである500坪。山縣死後貞子夫人邸となる。 古希庵(こきあん) 小田原別邸山縣明治40年1907年)、古稀折り造営し晩年過ごした邸宅平屋建和風木造母屋木造2階建ての洋館伊東忠太設計1909年竣工)、レンガ造平屋建洋館ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園相模湾箱根山借景としていた。「小田原大御所」の異名はここに由来する山縣がめったに上京しなくなったことから中央政界小田原詣でが始まるが、これが山縣威光をさらに演出することとなり、伊東巳代治はこの戦略を「山縣式」と呼んだ隣地には、土地確保協力した益田孝の掃雲台があり、親しく交流したそのほか清浦奎吾大島義昌やまと新聞松下軍治山下亀三郎らの別荘隣接し周辺地は山縣閥のコロニー化していた。 新椿山荘 東京麹町大正6年1917年)。以前より所有していた麹町区五番町14隣接地足して拡張し東京滞在時の邸宅とした。

※この「おもな邸宅と庭」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「おもな邸宅と庭」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。

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