おもな邸宅と庭
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無鄰菴(初代) 長州吉田清水山慶応年間(1860年代後半)から明治33年(1900)まで使用。 椿山荘 東京・小石川目白台の本邸明治10年(1877年)にこの地を購入し造営を開始し、明治11年(1878年)に管制。作庭は岩本勝五郎。隣地に田中光顕の家があり、親密に行き来していた。以後東京の本邸として使用され、大正7年(1918年)に藤田平太郎に譲渡。 山縣農場 栃木県・矢板明治19年(1886年)、那須に広大な第三種官有地の払下げを受け移住農家を招致して開墾をすすめたもの。古希庵の伊東忠太設計による木造洋館は大正12年(1923年)、関東大震災被災のあと養嗣子・伊三郎によりこの農場に移築され、現在は財団法人山縣有朋記念館となっている。山縣自身はほとんど滞在していない。 小淘庵(おゆるぎあん) 大磯別邸明治20年(1887年)ごろからの約5,000坪の別邸。足関節炎の治療には山より海岸がいいという橋本綱常の勧めに従ったものだが、伊藤、西園寺、大隈ら有力政治家の別荘が隣接し、政治的交流の場としても機能した。のちに山縣はこれを三井家に譲渡して古稀庵を構えた。 無鄰菴(第二)京都別邸明治24年(1891年)。旧角倉邸。鴨川と高瀬川の分岐点、二条大橋のたもとに位置していた。敷地の拡張ができなかったため翌年売却。 無鄰菴(第三)京都別邸明治29年(1896年)完成。建物自体の完成は1895年。数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、レンガ造り2階建て洋館からなる。洋館の設計は新家孝正で明治31年(1898年)に竣工。この洋館2階の間は日露開戦直前には「無鄰菴会議」の舞台ともなった。作庭は七代目小川治兵衛(当時35歳で、山縣は初めて起用した)。 新々亭(さらさらてい) 東京小石川水道町別邸明治40年(1907年)。この庭にも流れと池が配置された。「新々亭」という名は山縣の詠じた「さら/\と木がくれつたひゆく水の流れの末に魚のとぶみゆ」という歌にちなんだものである。500坪。山縣の死後は貞子夫人邸となる。 古希庵(こきあん) 小田原別邸。山縣が明治40年(1907年)、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造2階建ての洋館(伊東忠太設計、1909年竣工)、レンガ造平屋建の洋館(ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた。「小田原の大御所」の異名はここに由来する。山縣がめったに上京しなくなったことから中央政界の小田原詣でが始まるが、これが山縣の威光をさらに演出することとなり、伊東巳代治はこの戦略を「山縣式」と呼んだ。隣地には、土地確保に協力した益田孝の掃雲台があり、親しく交流した。そのほか、清浦奎吾、 大島義昌、やまと新聞の松下軍治、山下亀三郎らの別荘が隣接し、周辺地は山縣閥のコロニーと化していた。 新椿山荘 東京・麹町大正6年(1917年)。以前より所有していた麹町区五番町14に隣接地を足して拡張し、東京滞在時の邸宅とした。
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