荏柄天神社境内とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 荏柄天神社境内の意味・解説 

荏柄天神社境内

名称: 荏柄天神社境内
ふりがな えがらてんじんしゃけいだい
種別 史跡
種別2:
都道府県 神奈川県
市区町村 鎌倉市
管理団体
指定年月日 2005.07.14(平成17.07.14)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 荏柄天神社は、鎌倉市中央部東側源頼朝開いた幕府伝承地北東200m丘陵先端部に位置し、谷を挟さんで約300m西側対岸丘陵には史跡法華堂跡源頼朝墓)が隣接している江戸時代成立の「相州鎌倉柄山天満宮略縁起によれば長治元年11048月25日天神降臨したことに始まるという。天保12年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』は、幕府鬼門鎮護のために祀られたとの社伝採録している。周囲よりも7m程高い東西約55m、南北約50mの削平地社殿設けている。社殿裏は人工的に切り落とした急崖で、社殿両側は袖状の尾根張り出しており、鶴岡八幡宮の上敷地造成との共通性見られる
天神は、東国では八幡神とともに平将門新皇の位を授ける神として現れ(『将門記』)、武家政権成立関わる神であり、弘安4年(1281)には鶴岡八幡宮境内末社としても祀られた。貞永元年(1232)成立の『御成敗式目』の末尾付され起請文には、幕府ゆかりの神々最後に天満大自在天神」として記されており、誓約関わる神でもあった。
『吾妻鏡』での初出建仁2年(1202)9月11日条で、大江広元が荏柄社祭の奉幣使奉仕したとある。建保元年12132月25日26日条には、渋川兼守が荏柄社に奉じ詠歌によって、将軍実朝より罪を赦されたとある。寛元2年(1244)7月20日8月3日条には、密通被疑者起請文進めて参籠して失無しとされたとある。弘長元年(1261)5月8日の「天神坐像胎内銘文」では、荏柄神主平政泰によって朝廷幕府鎮護祈願されている。
当社鎌倉における詩歌信仰の中心であり、室町時代には鎌倉公方正月25日参詣し千句催しが行われた(『鎌倉年中行事』)。鎌倉公方足利成氏宝徳3年(1451)9月23日御教書で「天下安全祈祷事」を命じており、武家政権維持に当たり、鶴岡八幡宮と対になって信仰されていた。北条氏康天文17年(1548)に社殿造営用途のために関を寄進している。豊臣秀吉天正18年(1590)に鎌倉入り鶴岡八幡宮当社造営沙汰し徳川家康天正19年社領19貫文余の朱印状下して造営命じている。
元和8年(1622)、徳川秀忠による鶴岡八幡宮造営の際に、若宮旧社殿を当社移し幕府援助本社末社造営が行われている。これ以後幕府による30年から40年ごとの鶴岡八幡宮修造併せて当社修造され、当社鶴岡八幡宮と並ぶ武門の神として維持されてきた。平成13年修理の際に鎌倉市教育委員会建造物調査行い当社本殿正和5年(1316)の造営で、元和8年当社移築された旧鶴岡八幡宮若宮本殿であることが確認された。
荏柄天神社幕府鬼門鎮護神社伝えられており、武家誓約保証し武家政権守護する神として鶴岡八幡宮とともに信仰され東国天神信仰詩歌信仰の中心でもあった。また、境内地宗教的な環境良好に残しており、武家信仰形態伝え遺跡として重要である。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  茶臼山古墳  茶臼山古墳・小茶臼山古墳  草津宿本陣  荏柄天神社境内  荒屋敷貝塚  荒屋遺跡  荒島古墳群



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「荏柄天神社境内」の関連用語

荏柄天神社境内のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



荏柄天神社境内のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS