『白日夢』の時代
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1943年(昭和18年)11月8日、神奈川県横浜市に生まれる。祖父がイタリア人という家系に生まれ、第二次世界大戦後はサンモール学院(現在のサンモール・インターナショナル・スクール)に進学する。 1962年(昭和37年)に同学院を卒業、その後、日活に入社する。『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)によれば、日活には「ニューフェイス」として入社したといい、「大部屋女優として映画に出演していた」という。同年の「ニューフェイス」であれば第六期、翌年であれば第七期にあたる。第四期ニューフェースであった久木登紀子が、路が入社する前年の1961年(昭和36年)8月16日に公開された『太陽は狂ってる』(監督舛田利雄)を最後に退社し[要出典]、1962年2月27日には久木が香取環の名で主演した『肉体の市場(英語版)』(監督小林悟、製作協立映画、配給大蔵映画)が公開されて、独立系の成人映画界にデビューしているが、1963年(昭和38年)には路も日活を退社し、同年12月31日に公開された『不倫のつぐない』(監督若松孝二、製作新映フィルム、配給日本シネマ)の主演に抜擢されて、路 加奈子の名で独立系の成人映画界にデビューした、とされる。同作には香取環が佐久間しのぶの名で出演しており、香取を主演とする資料もある。同作の公開の半年前、大蔵映画が製作・配給した『怪談異人幽霊』に本名の岩田 レナで出演、主人公の一条美矢子の友人役を演じた記録が残っており、その翌年の1964年(昭和39年)5月16日に公開された、大蔵映画社長・大蔵貢の実弟である近江俊郎が監督した『この道赤信号』(配給大映)にも本名で出演した。『この道赤信号』公開の翌日17日には、ふたたび若松孝二監督による路の主演作『赤い犯行』が公開されている。 武智鉄二は『赤い犯行』における路を観て、自らの次回作『白日夢』の主演に抜擢することを決める。同年6月、公開に先行し、同作の原作者・谷崎潤一郎が雑誌『マドモアゼル』六月号にエッセイ『路さんのこと』を寄稿、京マチ子や春川ますみを好んだ谷崎は、路を指し「日本風の細面の美人より、ブリジッド・バルドーやマリリン・モンローのような、グラマーな女性の方が好き」と評した。新映倫(映画倫理管理委員会、現在の映画倫理委員会)を通過したうえで、同年6月21日、松竹が配給して成人映画として公開された。同31日には警視庁が同作中に「わいせつ罪にふれる部分がある」として、新映倫にカットを要請した。翌7月には、雑誌『シナリオ』7月号に同作の脚本と、谷崎の『「白日夢」の映画化について』が発表された。澁澤龍彦は、『デパートのなかの夢魔 - 「白日夢」のノスタルジアについて』において、「路加奈子は顔の表情には乏しいが、そのオブジェのような裸体は、若々しさにあふれていて、わたしたちの眼を存分に楽しませてくれる。とくに見るべきものは、乳房、-- というよりもむしろ、乳首であろう」と路を評した。いわゆる映画産業の斜陽化以降、松竹のような大手が製作配給本数を減らし、映画館では独立系の成人映画を上映する傾向があるなかで、同作のヒットは「ピンク映画ラッシュのひきがねとなった」とされる。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男とともに、路の名を挙げている。同年7月には、テイチク(現在のテイチクエンタテインメント)からシングル『私をきつく抱きしめて』を発表、歌手としてデビュー、映画『白日夢』をきっかけに同年9月、路は松竹に入社する。
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