『桐の花』までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『桐の花』までの意味・解説 

『桐の花』まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:47 UTC 版)

北原白秋」の記事における「『桐の花』まで」の解説

1906年明治39年)、新詩社参加与謝野鉄幹与謝野晶子木下杢太郎石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏蒲原有明薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇交友が更に広がるまた、この頃より象徴派興味を持つ1907年明治40年)、鉄幹らと九州遊び(『五足の靴参照)、南蛮趣味目覚める。また森鷗外によって観潮歌会招かれ斎藤茂吉アララギ派歌人とも面識を得るようになった1908年明治41年)、『謀叛』を発表し世評高くなる。またこの年新詩社脱退した木下杢太郎を介して石井柏亭らのパンの会参加。この会には吉井勇高村光太郎らも加わり象徴主義耽美主義詩風志向する文学運動の拠点になった1909年明治42年)、『スバル創刊参加木下らと詩誌『屋上庭園創刊。また処女詩集邪宗門上梓官能的唯美的な象徴詩作品話題となるも、年末には実家破産し一時帰郷余儀なくされた。 1910年明治43年)、『屋上庭園2号掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ発禁処分を受け、同誌は年内廃刊した。またこの年名張市医師の娘であった松下俊子の隣家東京原宿)に転居1911年明治44年)、第二詩集思ひ出刊行故郷柳川破産した実家捧げられ懐旧の情が高く評価され一躍文名高くなる。また同年には文芸誌朱欒ざんぼあ)』 を創刊1912年明治45年 / 大正元年)には母と弟妹東京呼び寄せ年末には一人故郷残っていた父も上京する白秋隣家住んでいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され未決監拘置された。弟らの尽力により2週間後に釈放され、後に和解成立して告訴取り下げられたが、人気詩人白秋名声不祥事によって地に堕ちた。この事件以降白秋詩風にも影響与えたとされる1913年大正2年)、初めての歌集桐の花』と、詩集東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派柔らかな抒情をよく咀嚼し歌風見せ、これによって白秋歌壇でも独特の位置占めるようになる同年春に俊子と結婚三崎転居するも、父と弟事業失敗白秋夫婦残して一家東京引き揚げる。『城ヶ島』はこの頃作品であるという。また同年に『朱欒』を廃刊発行期間は短かった萩原朔太郎室生犀星詩壇登場する足がかりとなった同年長野県佐久ホテル逗留して執筆活動を行う。

※この「『桐の花』まで」の解説は、「北原白秋」の解説の一部です。
「『桐の花』まで」を含む「北原白秋」の記事については、「北原白秋」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『桐の花』まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『桐の花』まで」の関連用語

『桐の花』までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『桐の花』までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北原白秋 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS