「面白いドラマ」への期待
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 16:27 UTC 版)
「時代考証」の記事における「「面白いドラマ」への期待」の解説
丸島和洋は、大河ドラマは教科書ではないと述べ、「エピソードが面白くドラマの流れ上自然なのであれば、そちらを優先させたほうがよい」「史実とのバランスを考えながら、ドラマづくりを上手にサポートしていくのが時代考証者の仕事」という。林美一は、時代考証をめぐる随筆集『時代風俗考証事典』(1977年)において、「考証のためにドラマがある」のではなく「ドラマのために考証がある」という考証スタンスを主張している。 NHKの大森洋平は「資料が残っていない部分は演出のさじ加減」、「時代考証とは、登場人物の服装、行動、話し方などの枠組みを決める作業です。その枠の中では、自由に遊んでもいいんです。あくまで史実に引っかけた『ファンタジー』ですから」としている。 本能寺の変を描いたドラマ・映画・漫画作品において、「織田信長が自ら鉄砲を持って応戦する」場面は多く描かれた、いわば定番のシーンではあるが、史料の上では確認できない。『功名が辻』(2006年)の脚本にもその場面があり、小和田によれば考証会議の席で『信長公記』を示しながら脚本の修正を主張したものの、制作側から「その夜の本能寺に鉄砲が一挺もなかったという史料はありますか」と反論され、それ以上「だめ」とは言えなくなったということを述べている。 歴史学者の磯田道史には、映画化された著書もあるが(『武士の家計簿』『殿、利息でござる!』)、「歴史映画」について「その時代のエッセンスがわかるということは重要ですが、必ずしも史実にのっとっている必要はない」「実際起きていなくても、起きうる出来事を描いていれば、それは歴史映画だと言っていい」と述べている。 『西郷どん』の時代考証を務めた原口泉は、大河ドラマは「歴史ドラマ」であり「歴史ドキュメント」ではないと述べる。原口は『西郷どん』のプロットづくり(脚本は中園ミホ)から関わっているが、あえて史実と異なる「フェイク」も多く通している。 時代劇研究家の春日太一は『なぜ時代劇は滅びるのか』(2014年)において、「極端に言えば、それ〔注:時代劇〕が作品として面白ければ考証として正しかろうが間違っていようがどうでもいい」と自らの関心を述べ、「多くの観客が時代劇に求めるのは「正確な史実」でも「最新の学説の発表」でもない。「ロマン」つまり「こうだったら面白い」という世界である」とする。春日は、テレビドラマ『鬼平犯科帳』(中村吉右衛門主演)で表現された「江戸情緒」を高く評価しているが、一方で『鬼平犯科帳』の成功によって、時代劇というジャンルが「時代考証」に過剰に縛られドラマとしての表現を窮屈にする結果を招いてしまい、作り手にとっても視聴者にとっても時代劇が「敷居の高い」「つまらない」ジャンルになって衰退してしまったとする。春日は考証とドラマ制作との関係について、「考証に忠実な美術監督」と評価されている西岡善信が、時代劇のセット設計で最も重要なのは考証に忠実かではなく、ドラマの情感をどれだけ表現できるかである旨を語った言葉を紹介している。 春日は、制作者側が自由にイマジネーションを働かせ、細部まで完成された虚構世界を築き上げた「ファンタジーとしての時代劇」の復活を期待するが、「いい加減に作られた時代劇」を「ファンタジー」と呼ぶ傾向を批判する。なお春日は大河ドラマに関して、「歴史の残酷さに翻弄される人間たち」の物語が魅力という見方を示しており、「史実を忠実に再現することが必ずしも正解ではない」と主張する。その証左として、「名作」と呼ばれる大河ドラマ作品のほとんどは物語性のために創作を盛り込み史実を改変してきたと述べる。春日は2000年代以降の大河ドラマの一部についてリアリティがないと酷評しているが、考証の観点ではなく物語性の観点からであり、「わかりやすさ」を追究したご都合主義的な脚本を批判している。
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