「白票事件」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:51 UTC 版)
1935年7月9日の東京商大教授会において杉村広蔵助教授提出の学位請求論文が否決された(出席21名中、可が13名、否が1名、白票が7名で可が規定の4分の3に届かず)。この結果に杉村・山口茂・上原専禄ら若手教官が「投票に談合あり」として反発し、いわゆる「白票事件」が起こった。本間は、高垣寅次郎・岩田新などと共に「白票組」の一員として若手教官組と激しく対立した。この対立は若手教官組による佐野善作学長退任を目指す思惑も絡まり、教員のみならず学生も巻き込んだ全学的な対立へと発展していく。 9月18日に学生大会が開かれ、学生は若手教官組を支持する方針を決定。9月20日には白票組と若手教官組との話し合いの場が初めて設定されるが、本間らによる白票の正統性の説明に若手教官は納得せず、対立したまま散会。同日、事態収拾のため佐野学長は辞意を表明した。後任には両羽銀行(現在の山形銀行)頭取であった三浦新七の名が挙がるが、本間・高垣・岩田・高瀬荘太郎・内藤章の白票組5教授が最後まで反対。この時は三浦本人の説得により、10月3日になってようやく三浦の学長就任が承諾された。事態はこれで収まったかに見えたが、翌1936年1月18日に三浦学長が杉村助教授に対して学内混乱の責任をとっての辞職勧告をしたことから問題が再燃。学生からは「辞職勧告絶対反対」の声が上がり、若手教官組の一部では授業のボイコットも発生した。三浦学長はさらに2月10日、学内役職付教員の一斉更迭を発表し刷新を図る(この時に本間が高垣に代わり附属図書館長となっている)も、これには白票組が反発。2月14日、人事を不服として14教授(本間・高垣・岩田・高瀬・内藤・堀光亀・渡邊大輔・金子弘・木村恵吉郎・渡邊孫一郎・井藤半彌・内藤濯・阿久津謙二・山田九朗)が辞表を提出する事態となった。本間は2月17日に辞表組を代表して三浦学長と会見し、若手教官組の処分ならびに辞表の受理を迫った。三浦はその際に善処すると確約し、辞表は保留し静観することとなった。この直後に二・二六事件が発生し、岡田内閣は総辞職、廣田内閣が成立した。廣田内閣では東京商大を管轄する文部大臣に東京高等商業学校(東京商大の前身)出身である平生釟三郎が就任した。 三浦学長は「解決策」として本間・高垣そして杉村の3教官の罷免を平生文相に提案。平生は当初保留していたが、岩田の単独辞任、学生が「三浦学長絶対支持」を訴え辞表組の教授が担当する授業のボイコットが実施されているなど学内情勢の混乱に拍車がかかっていることを鑑み、5月7日に3教官の罷免(形式上は「依願退職」)を決定。「両成敗」の形となった。辞表組はこれを不服として、既に辞職した本間・高垣・岩田を除く11教授が再度辞表を提出したが、三浦学長の必死の説得により渡邊大輔・金子弘を除く9人は辞表を取り下げた(渡邊・金子は意志固く8月25日に依願退職)。また、三浦学長自身も混乱の責任を取り辞意表明。同年11月に辞任し(後任は中間派の上田貞次郎)、文部省の三辺長治文部次官と赤間義信専門学務局長もこの事件の影響で辞任している。こうして、白票事件は終結を見せた。 なお、本間はこの時の東京商大の対応を不満に感じており、白票事件以後、一度も国立の土地を踏んでいないという。また、本間のそのような心情を慮ってか戦後の1950年に一橋大学(戦後、東京商大より改組)から名誉教授の称号を授与された際には、妻の登龜が届いた辞令を本間に見せず仕舞いこんでしまったという。そのために本間は自分が名誉教授となっていることに、登龜の死後まで気が付いていなかった。
※この「「白票事件」」の解説は、「本間喜一」の解説の一部です。
「「白票事件」」を含む「本間喜一」の記事については、「本間喜一」の概要を参照ください。
- 「白票事件」のページへのリンク