山口茂
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山口 茂(やまぐち しげる、1924年(大正13年)1月5日[1] - 2000年(平成12年)12月2日[1])は、日本の政治家。茨城県笠間市長(4期)。
来歴
茨城県西茨城郡笠間町(現・笠間市)出身[2]。茨城県立笠間農業学校(現・茨城県立笠間高等学校)卒[2]。戦後、笠間町農業委員、市制施行により市農業委員長、1960年から笠間市議会議員を3期務め[3]、1968年笠間市長榎並栄の死去による笠間市長選挙に立候補し、初当選[3]。市長を4期務める。同年市観光協会会長、市土地開発公社理事長のほか、笠間市農業協同組合長、笠間土地改良区理事長、茨城県国保連合会理事長、茨城県市長会副会長などを務めた[2]。
市長就任当初、笠間市は財政再建団体に指定され、指定解除が最大の急務だった。そこで行政改革を打ち出し、一期目で指定解除を実現させた[2]。次に市の開発に力を入れ、学校や中央公民館、市体育館などの公共施設や道路網を整備した[2]。さらに産業の振興のため、農地整備や工場を誘致させた[2]。
藍綬褒章、茨城県知事表彰、日本赤十字社金色有功章、全国市長会表彰、全国農業共済協会表彰などを受けた[2]。
脚注
参考文献
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。
山口 茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/09 02:20 UTC 版)
田島が7人目に殺害した被害者の遺族。孫の京也を殺されている。当初「田島を殺す」と言って学校に乗り込んできたが、仕事に精を出す田島を見て(決して許してはいないが)田島を「バカ息子」と呼ぶようになる。しかし、それがもとである事件に巻き込まれてしまう。事件の後、たびたび学校を訪れ田島に「人を愛する事」の大切さを言い聞かせ、病のために息を引き取った。
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