東亜同文書院大学へとは? わかりやすく解説

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東亜同文書院大学へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:51 UTC 版)

本間喜一」の記事における「東亜同文書院大学へ」の解説

東京商大辞した本間は翌1937年弁護士登録をし、弁護士業務を始める。同郷結城豊太郎らから支援受けていた。 1940年白票事件影響文部省辞し日華学会理事東亜高等予備学校学監となっていた赤間要請により中国上海東亜同文書院大学教授として赴任し、(旧制専門学校書院教頭大学予科長を委嘱された。担当科目商法、「独自のユーモア溢れる、しかも深みのある講義」は学生歓迎されたというが、1943年に突然辞職した。これには学長矢田七太郎大学運営のめぐる対立原因であったとも伝えられるが、詳細不明である。東亜同文書院大学教授小岩井浄は、帰国した本間の許に学生派遣して復帰要請し同学運営団体東亜同文会理事長津田静枝も本復帰働きかけた。 1944年本間学長として復帰学長在任中、出征する学生を送る壮行の辞では「戦争終わった後の処理をうまく行うためにも、諸君には必ず生きて還ってもらわねばならない」、入学式では「勝つ事ばかり語らず負けた時のことも考えておかねばならない」などと当時教育機関属する者としては異例発言おこなったという複数証言残されている。学生からは驚きと共に感激持って受け止められたという。 1945年終戦すると学校財産中国接収され、さらに上海インフレ見舞われたが、本間終戦備えて学校財産一部を米や味噌醤油金の延べ棒などに換物していたことから、学生教職員比較安定した生活を送ることができた。1946年3月本間はじめとする学生教職員など200余り福岡県博多引き揚げた。

※この「東亜同文書院大学へ」の解説は、「本間喜一」の解説の一部です。
「東亜同文書院大学へ」を含む「本間喜一」の記事については、「本間喜一」の概要を参照ください。

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