東亜同文書院大学へ
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東京商大を辞した本間は翌1937年に弁護士登録をし、弁護士業務を始める。同郷の結城豊太郎らから支援を受けていた。 1940年、白票事件の影響で文部省を辞し、日華学会理事・東亜高等予備学校学監となっていた赤間の要請により中国・上海の東亜同文書院大学に教授として赴任し、(旧制専門学校)書院教頭兼大学予科長を委嘱された。担当科目は商法、「独自のユーモア溢れる、しかも深みのある講義」は学生に歓迎されたというが、1943年に突然辞職した。これには学長矢田七太郎と大学運営のめぐる対立が原因であったとも伝えられるが、詳細は不明である。東亜同文書院大学教授小岩井浄は、帰国した本間の許に学生を派遣して復帰を要請し、同学の運営団体東亜同文会の理事長津田静枝にも本間復帰を働きかけた。 1944年本間は学長として復帰。学長在任中、出征する学生を送る壮行の辞では「戦争が終わった後の処理をうまく行うためにも、諸君には必ず生きて還ってもらわねばならない」、入学式では「勝つ事ばかり語らずに負けた時のことも考えておかねばならない」などと当時の教育機関に属する者としては異例の発言をおこなったという複数の証言が残されている。学生からは驚きと共に感激を持って受け止められたという。 1945年終戦すると学校財産は中国に接収され、さらに上海はインフレに見舞われたが、本間が終戦に備えて学校財産の一部を米や味噌、醤油、金の延べ棒などに換物していたことから、学生、教職員は比較的安定した生活を送ることができた。1946年3月、本間をはじめとする学生、教職員など200名余りは福岡県博多に引き揚げた。
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