「ティランテ」艦長
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「ジョージ・L・ストリート3世」の記事における「「ティランテ」艦長」の解説
詳細は「ティランテ (潜水艦)」を参照 「ガー」を退艦したストリートは、第61潜水群司令付となって潜水群の機関担当スタッフとなる。次いで7月にはニューハンプシャー州ポーツマスに赴いて、ポーツマス海軍造船所で建造中の「ティランテ」の艦長に任命される。「ティランテ」は1944年11月6日に竣工し、ロングアイランド湾での整調訓練およびパナマ沖、オアフ島沖で訓練を行ったあと、1945年3月3日に最初の哨戒で九州近海に向かった。この時点では日本商船隊はそのほとんどが撃沈されていたが、ストリートは艦を陸岸に近い浅瀬に乗り入れて、いくつかの目標を発見。3月25日に特設駆潜艇「富士丸」(関西汽船、703トン)、3日後の3月28日に貨客船「名瀬丸」(大阪商船、1,218トン)をそれぞれ撃沈し、4月9日にはタモ53船団を攻撃して貨客船「日光丸」(東亜海運、5,057トン)を撃沈した。 「ティランテ」最初の哨戒のハイライトは、4月14日未明に済州島北西部の飛揚島泊地に停泊していたモシ02船団への攻撃である。アメリカ海軍情報局からの通報に基づいて「ティランテ」を飛揚島近海に持って行ったストリートは、モシ02船団が停泊中の海域が浅海であることを考慮し、浅瀬や機雷に注意を払いつつ浮上したまま戦闘配置を令し、銃砲に人員を配置して泊地の北方からモシ02船団に接近していった。この時点で「ティランテ」は魚雷を7本残していたが、そのうちの6本を特設運送船「寿山丸」(大連汽船、3,943トン)、海防艦「能美」および第31号海防艦に命中させて撃沈した。「寿山丸」に対しては魚雷を3本発射し、うち2本が命中した「寿山丸」は大規模な爆発を起こした。「途方もない美しい爆発」と戦時日誌に記したストレートは、続けて「白く、まばゆいばかりの炎を発する巨大なキノコ雲は、2,000フィートは達したであろうか。命中した瞬間は音はなかったが、間を入れずものすごい轟音がわれわれの耳に突き刺さった。撃沈は間違いないと確信した」とも記した。「ティランテ」は全速力で外洋に向かい、追ってきた「能美」と第31号海防艦に対して魚雷を発射し、「能美」は瞬時に沈没して第31号海防艦にも魚雷が命中。後者は魚雷自体が不発だったが爆雷が誘爆して第31号海防艦も沈没した。モシ02船団への攻撃は高く評価され、ストリートに名誉勲章が授与されたほか、「ティランテ」に殊勲部隊章(英語版)、副長エドワード・L・ビーチ(英語版)中尉(アナポリス1939年組)には海軍十字章がそれぞれ授けられた。 5月20日からの二度目の哨戒では早くもウルフパックを統率する立場となり、「ストリーツ・スウィーパーズ」 (Street's Sweepers) として9隻の潜水艦を指揮。6月11日、ストリートは「ティランテ」を操って再度大胆な要地攻撃を行った。長崎から約11キロしか離れていない端島と野母半島間の海域に侵入し、端島南東部の岸壁で石炭の積み込み作業中の輸送船「白寿丸」(白洋汽船、2,220トン)を発見して魚雷を2本命中させて撃沈。攻撃後、「ティランテ」は端島から離れようとしたが、右側の潜舵の調子が悪くなり、「ティランテ」は意を決して浮上でこの海域を脱出することとした。沿岸砲台からの砲撃が「ティランテ」の至近に着弾したが「ティランテ」は速度を上げ、この間に潜舵の調子が戻ったので、再び潜航して海域を離脱した。一連の攻撃の様子は、映像として残された。その後は黄海の奥深くに入り、7月8日に輸送船「済通丸」(大連汽船、1,037トン)を撃沈したほかジャンクなど撃ち沈め、7月19日にグアムアプラ港に帰投。要地侵入の末の「白寿丸」撃沈の戦功により、ストリートに海軍十字章が授けられた。 ストリートの「ティランテ」は8月12日に三度目の哨戒に出撃するも、3日後に日本が降伏したため引き返し、8月23日にミッドウェー島に帰投。その後は東海岸に回航され、10月にワシントン海軍工廠に到着。10月6日、ストリートはホワイトハウスに招待され、ハリー・S・トルーマン大統領から名誉勲章を授けられた。
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