唐招提寺 歴史

唐招提寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:31 UTC 版)

歴史

続日本紀』等によれば、唐招提寺は僧・鑑真天平宝字3年(759年)、新田部親王天武天皇第7皇子)の旧・宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語[2]で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。「唐律招提」とは「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった[3]

鑑真の渡日と戒律(かいりつ)の伝来

鑑真(688年 - 763年)の渡日については、淡海三船撰の『唐大和上東征伝』(宝亀10年・779年成立)が根本史料となっている。唐招提寺の歴史については同書のほか、『招提寺建立縁起』、江戸時代のものであるが元禄14年(1701年)義澄撰の『招提千歳伝記』などの史料がある。『建立縁起』は承和2年(835年)に鑑真の孫弟子にあたる豊安が記した『招提寺流記』が原本であるが、この原本はすでに失われ抄出したものが『諸寺縁起集』(護国寺本、醍醐寺本)に収録されている[4][5][6]

鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」・「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため官の承認を経ず私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて社会秩序の乱れにつながっていた[7][8]

こうした中天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないのでしかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時唐から出国することは国禁を犯すことであった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。1回目の渡航計画(743年)は、鑑真の弟子の如海の密告により船を出す前に発覚し、普照と栄叡が捕縛されてしまった。2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、唐最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画で遂に日本に帰る遣唐使船に遣唐副使の大伴古麻呂の機転で乗船が叶い、ようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた[9][10]

こうして遣唐使船に同乗すると、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、鑑真は薩摩国に上陸した。翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津大阪)にたどり着いた。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇光明皇太后孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7歳(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)に前述のように今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった[11]

伽藍(がらん)の整備

唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル[12])。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている[13]。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を切妻造から寄棟造に改造したものとされている。すなわち、『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に「地主屋倉」として挙げられている3棟の倉のうちの一つがこれにあたるとみられる。他に新田部親王時代の建物はない[14]

『招提寺建立縁起』に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、奈良時代の唐招提寺には、南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂3基、食堂(じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房、小子房、温湯室、倉などがあった。このうち、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築したもの、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった[15]。藤原清河は、鑑真が渡日した際の遣唐使の大使であったが、鑑真の乗った第二船と異なり、清河の乗った第一船は遭難して唐へ戻され彼は唐の地で没した。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物を移築した、もしくは清河の家族が建築費を負担した、の意に解されている[16]。これらの建物のうち、もっとも早く鑑真の在世中に建立されたものは講堂であった[17]。金堂の建立年代には諸説あったが、部材の年輪年代測定の結果、781年に伐採された材木が使用されていることがわかり、鑑真没後の8世紀末の建立であることが確実視されている[18]。『招提千歳伝記』によれば、唐招提寺の歴代住持は鑑真、法載、義静、如宝、豊安の順となっているが、このうち第4代の如宝の時代に金堂を含む伽藍の主要部が建立されたとみられる[19]。また、鎮守社として境内の東に水鏡天神社も建立された。

主要伽藍のうち、もっとも遅れて建立されたのは東塔で、『日本紀略』に弘仁元年(810年)の建立とある[20]

覚盛らによる中興

平安時代中期以後、戒律護持が廃れたため唐招提寺は衰亡した[21]。とはいえ、保延6年(1140年)にはまだ金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などは残存していた[21]

鎌倉時代になると、釈迦信仰・舎利(釈迦の遺骨)信仰や戒律復興の気運の高まりにともなって、鑑真と彼のもたらした舎利に対する信仰が復興した。まず中川寺の実範が来訪し、『授戒式』を撰述した[21]。さらに、笠置寺の解脱房貞慶建仁3年(1203年)、唐招提寺にて釈迦念仏会(ねんぶつえ)を始めた[22]

唐招提寺中興の祖とされるのは、四条天皇に菩薩戒を授けたこともある律宗高僧の覚盛である[21]。覚盛は寛元元年(1243年)に舎利会の創設や鑑真の遺徳顕彰などを行い[21]、さらに翌寛元2年(1244年)に正式に当寺に入寺し、再興した[23]。寺観の本格的な復旧整備を行ったのは覚盛の法灯を継いだ証玄で、諸伽藍の修理や仏像の造立などに尽力し、戒壇の創設も行った[21]

鎌倉時代末期に入ると、祖父の亀山天皇の禅律振興政策を継承した後醍醐天皇からの崇敬を受けた。元徳2年(1330年8月9日には、後醍醐帝は覚盛に対し、「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)[24]仏教美術研究者の内田啓一によれば、後醍醐帝の腹心で護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)を務めた文観房弘真真言律宗出身で、唐招提寺中興9世長老の覚恵も文観から付法(伝授)を受けていたため、この諡号追贈は文観の推挙によるものではないかという[24]。なお、軍記物語太平記』(正平25年/建徳元年/応安3年(1370年)ごろ完成)には、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に文観と共に加わった高僧として「教円」という人物が登場するが、これは唐招提寺中興10世長老の慶円がモデルであるとされている[25](ただし史実として慶円が倒幕に加わったかは不明である)。

その後

14世紀南北朝時代以降、戦乱によって寺勢は再び傾き、寺領も多くが収奪され再び衰退した[21]

江戸時代中期に入ると、護持院隆光が唐招提寺で授戒を受けた[21]。隆光はのち江戸幕府第5代将軍徳川綱吉とその生母である桂昌院の帰依を受け、綱吉と桂昌院は隆光との関係から唐招提寺にも帰依し、これを庇護して修理を行い[21]元禄11年(1698年)には戒壇院を再興している[21]。その一方で、たびたび地震や雷火などの天災による被害を受け、享和2年(1802年)の火災では東塔(五重塔)などの重要建築を多く喪失した[21]

近代・現代

明治となり神仏分離が行われると鎮守社の水鏡天神社も独立した。近代以降、明治時代から昭和時代にかけて、諸堂の修理・保存が施工されている[21]

1934年昭和9年)9月21日室戸台風の暴風雨により宝蔵、開山堂が半壊、鼓楼も損害を受ける[26]

1941年(昭和16年)には律宗戒学院の設立、1963年(昭和38年)には御影堂(旧興福寺一乗院宸殿の移築)の造立が行われた[21]

また、鑑真の生涯や唐招提寺は井上靖の小説『天平の甍』(1957年)で広く知られるようになった。

鑑真和上の業績と名声を通じ、1978年(昭和53年)の日中平和友好条約の成立にも寄与し、高い評価を受けている[21]

金堂
金堂
金堂

  1. ^ 盧舎那仏像の光背の化仏の員数については資料によって「862躯」または「864躯」とある。『月刊文化財』554号 特集「唐招提寺金堂平成の大修理」(第一法規、2009年(平成21年))2ページの解説(奥健夫執筆)には「862躯」とあるが、同じ特集の50ページ(神田雅章執筆)には「864躯」とあり、いずれが正確であるかは不明である。
  2. ^ 経蔵と宝蔵では、正面扉の錠の数が異なる(経蔵は2箇、宝蔵は1箇)。
  3. ^ 旧鴟尾2箇は2012年追加指定[35]
  4. ^ 唐招提寺の塔頭・法花院(法華院)は1934年(昭和9年)まで唐招提寺境内にあり、その後奈良県曽爾村今井に移転したが、太平洋戦争後に廃寺となった[39]






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