アンディ・ウォーホル アンディ・ウォーホルの概要

アンディ・ウォーホル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 23:00 UTC 版)

アンディ・ウォーホール
Andy Warhol
本名 アンドリュー・ウォーホラ
Andrew Warhola
誕生日 (1928-08-06) 1928年8月6日
出生地 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ
死没年 (1987-02-22) 1987年2月22日(58歳没)
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
運動・動向 ポップアート
芸術分野 絵画映画
教育 カーネギーメロン大学
代表作 チェルシー・ガールズ(1966年映画)
プラスチック爆発は不可避(1966年イベント)
キャンベルのスープ缶(1962年絵画
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ピッツバーグにあるウォーホルの子供時代の家

銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。

生涯

生い立ち: 誕生 - 大学卒業

チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイ[注釈 2]と母ユーリア[注釈 3]の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる[注釈 4]。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。

虚弱体質で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一手で育てられた。アルバイトをしつつ地元の高校を卒業した後、カーネギー工科大学(現:カーネギーメロン大学)に進学。同校で広告芸術を学び、1949年に卒業[1]

ポップアートの誕生: 20代 - 30代前半

1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。

1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。

1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。

1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ英語版」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。

ファクトリーでの制作活動: 30代後半 - 40代

ウォーホルとファクトリー(The Factory)に集う彼の仲間たち

1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガーローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場[注釈 5]となる。

1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。
ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。

芸術の世界の外では、ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた[2]。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった[3]

狙撃事件とそれ以降: 40代 -

アンディ・ウォーホル(右)とカーター大統領(左)(1977年)
TDKビデオカセットテープCM出演時のアンディ・ウォーホルの写真と着用のジャケット(アンディ・ウォーホル現代美術館展示、2016年、スロバキア)

1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナスValerie Solanas)に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。

三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。

1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。1972年ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。1974年 (46歳)、初来日。

多彩な活動: 50代 - 没

1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後にロシア政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。

1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』[注釈 6]と題して、ブラウン管カラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカミドォリィアオゥグンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。

1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン)」のミュージック・ビデオを手掛けたが、最初のヴァージョンは内容が過激なため放送禁止になってしまった。

1987年2月17日、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとしてマイルス・デイヴィスとともに参加。しかし直前に体調を悪くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。

2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。

作品

スロバキアの首都、ブラチスラヴァにあるウォーホルの像

派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故のイメージも描かれた。

彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。

シルクスクリーンによる作品

初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが、1960年代以降は版画のシルクスクリーンを多用している。孔版印刷であるシルクスクリーンの原理は平たくいえば「プリントゴッコ」のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクスクリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプリントをずらしたり、インクをはみ出させた。

シルクスクリーンのモチーフに以下のようなものを選んだ(一例)。

映画制作

シルクスクリーンプリント制作の傍ら1963年から1968年にかけ、60を超える映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966年の『チェルシー・ガールズ英語版』。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた『スリープ( Sleep)英語版』(1963年)。彼はアクション映画を好まず(本質的には同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なものをテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかもしれない。 その後も映画制作をし、劇映画も制作。 ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方のスクリーンにはニコの貌がランダムに挿入される)、『チェルシー・ガールズ』(1966年)は全米で公開され大ヒットとなった。他にも『エンパイア (1964年の映画)』、『フォースターズ(1967年映画)英語版』がある。1970年代に入ってからはそれまでの作品とは一転し、ジョー・ダレッサンドロウド・キアを主演とする『悪魔のはらわた』(1974年)や『処女の生血』(1974年)、『アンディ・ウォーホルのBAD』(1977年)といったホラー映画の総監修も行なった。ポルノ映画ブルー・ムービー』の監督も行った。

『Interview』誌

Interview』は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビューのみで構成される月刊グラフ誌である。1969年秋創刊。縦16インチ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物を載せた。


注釈

  1. ^ ウォーホールとも表記。
  2. ^ 英語読みでの"アンドレイ"に当たる。
  3. ^ 英語読みでの"ジュリア"に当たる。
  4. ^ 出生日や出生地には諸説ある
  5. ^ この時期のカルヴィン・トムキンズによる『ニューヨーカー』誌での記事が「第1章 ぼろ着のアンディ・ウォーホールとその仲間たち」-『ザ・シーン ポストモダン・アート』(高島平吾訳、パルコ出版、1989年)に収録。
  6. ^ 「想像 (imagine)」と「現代人」をかけたこのコピーは、眞木準によるもの。

出典

  1. ^ 布施英利『パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで』光文社、2015年、98頁。ISBN 978-4-334-03837-3 
  2. ^ Warhol photo exhibition, Stockholm, 1968: Kaplan, Justin, ed., Bartlett's Familiar Quotations, 16th Ed., 1992 (Little, Brown & Co.), p. 758:17)
  3. ^ Looking For Fame In All the Wrong Places, by Candace Murphy in the Chicago Tribune, Aug 25, 2006
  4. ^ https://warholfoundation.org/foundation/index.html 「FOUNDATION PAST AND PRESENT」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧
  5. ^ https://warholfoundation.org/ 「The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧
  6. ^ a b https://warholfoundation.org/licensing/index.html 「LISESING」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧
  7. ^ https://warholfoundation.org/grant/overview.html 「OVERVIEW AND GUIDELINES」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧
  8. ^ a b 「アンディ・ウォーホルの「どこでもない」故郷を訪ねて」クーリエ・ジャポン 2018.11.5 2021年3月5日閲覧
  9. ^ a b https://www.warhol.org/museum/ 「About the Museum」The Andy Warhol Museum 2021年6月15日閲覧
  10. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3144730?page=2 「アート市場が好景気、バスキア、バンクシーらストリートアーティストけん引」AFPBB 2017年9月28日 2021年6月23日閲覧
  11. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3048212?cx_part=search 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」AFPBB 2015年5月12日 2021年6月23日閲覧
  12. ^ https://www.suiha.co.jp/column/warholgapicassowokoetahi/ 「ウォーホルがピカソを超えた日」翠波画廊 2022年5月16日閲覧
  13. ^ asahi.com(朝日新聞社):D・ホッパーが撃った毛沢東の肖像画、2500万円で落札 - ロイター芸能ニュース - 映画・音楽・芸能
  14. ^ https://gigazine.net/news/20140425-unknown-warhol-works-discovered/


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