日野市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 15:31 UTC 版)
概要
かつては「日野宿」が設置されており、甲州街道の農業を中心とした宿場町として繁栄した。新選組の副長として活躍した土方歳三や六番組隊長の井上源三郎の出身地である。
また、市内最大の大企業である国内トラック・バス製造業界最大手の日野自動車の企業城下町でもある。
昭和に入ってからは大規模企業や大規模団地が進出しているものの、河川や丘陵地が多く、国土交通省より「水の郷百選」に認定されるなど自然も多い。また、多摩地区としては水田や野菜畑などの農地が占める割合が高く、都市農業の代表的な都市として紹介されることが多い。
平成22年国勢調査によれば、東京都特別区部への通勤率は20.9%、八王子市への通勤率は12.0%である。また、人口は増加しており、2005年から2020年までの人口増減比率は107.9%である。
日野市は丘陵地、台地、低地の3段階の地形となっているため坂が多い。自然豊かで少し坂を登った眺望や街全体の景観も良いため都内外の映画、テレビの製作会社から様々なロケ支援の依頼を受けて日野市内の施設や公園、民間の建物などを紹介する映像支援活動が盛んであることから多くのドラマ、PV、CMの撮影舞台となっている。
地理
日野市は大きく分けて稲作の多い低地、畑や工場の多い台地、森林の多い丘陵地に分けられる。いずれも近年は宅地化が進んでいる。
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地勢
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東京都の島嶼部を除く地域のほぼ中央に位置し、市域の西側に広がる日野台地は関東ローム層の堆積した土地で、西隣の八王子市へと続いている。北から東にかけては 隣接する昭島、立川、国立、府中の各市との境界を多摩川が流れ、市域の南部に広がる多摩丘陵(七生丘陵)の北側を西から流れてきた浅川と南東部で合流している。市域はイヌの横顔の形をしており、西を向いている犬の耳から後頭部そして首にあたる部分を多摩川が流れ、南部に広がる多摩丘陵の北側を西から流れてきた浅川と南東部で合流している。この事からも分かるように水に恵まれており、以前は「多摩の穀倉」と言われるほど稲作が盛んだった。現在でも川辺堀之内や新井地区などに田が、そして新町の台地部や西平山地区に畑が多く残っているが、土地区画整理事業の進展などにより、このような光景は徐々に減りつつある。
低地部
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昔ながらの土地利用で田畑が多い
低地部は多摩川と浅川に挟まれていることで用水路や田が多く、そして礫層を基盤とする台地や丘陵を抱えていることもあって、市内には179ヶ所の湧水が確認されており[1]、これらの特徴を極力生かした街づくりを進めていることが評価されて、国土交通省選定の水の郷百選にも選ばれている。代表的な水路は多摩川から取水している日野用水、浅川の滝合橋「左岸」(実際には平山橋下にある堰)付近から取水している豊田用水、同滝合橋の「右岸」付近から取水している平山用水、万願寺歩道橋(ふれあい橋)の手前から取水している向島用水等である。これら用水の役割は宅地化・市街化の進行により水田が減ったため、最近では以前の農業用水としての存在意義は薄れつつあるが、水環境の保全や防火用水、ヒートアイランド現象の抑制ということで都市に潤いを与えるものとしての価値は高まってきている。そのため、親水公園やビオトープとして、黒川清流公園や向島用水親水路を皮切りに再整備が進められている。
台地部
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北西部にある台地は関東ローム層で覆われており、日野台地と称される。西隣の八王子市に続いていて、かつては桑畑が広がっていたが、昭和10年ごろからいわゆる「日野五社」を始めとする大企業の工場の進出が相次ぎ、大手トラックメーカー日野自動車の本社および工場もここにある。さらに昭和30年代からは宅地としての開発が進んだ。特に昭和33年(1958年)から入居の始まった多摩平団地は団地の先駆け的存在である。
豊田駅の東側から黒川清流公園、神明、新町・東光寺地区にかけて逆「く」の字状に存在する河岸段丘は日野緑地と呼ばれ、市が土地を買い取るなどして開発を抑制している。
丘陵地
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と呼ばれる場所にある酪農
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市域南部は多摩丘陵が広がっていて、昭和30年代まではハイキング客などで賑わっていたが、その後は宅地化が進み、後述の地区以外は基本的に緑が失われた。
このように丘陵地帯も基本的には宅地となったが、関東三大不動のひとつとして知られる高幡山金剛寺(通称:高幡不動尊)の寺域である高幡山の周辺や程久保・南平地区にある都立の多摩動物公園と七生公園、市立南平丘陵公園付近は公園として緑が残されていて、都立七生公園では草を完全に刈らないといったことも実施されている。
百草・倉沢地区の周辺では環境意識の増加などにより、小沢緑地と京王線、多摩市境の内側を中心に「倉沢里山を愛する会」や市民らの協力によって森林を保全しており、一部では緑地内に遊歩道も存在する。この区画内は一部に田畑があり、農業が行われている、他には市内で唯一の酪農なども行われている。
気候
関東平野の内陸に位置するため都心よりも冬は2〜3℃気温が低く、積雪は20~30cmほど。宅地化の進展などによる反射熱により、夏の最高気温は反対に高い場合もある。
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主な河川
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主な用水路
ただし、これ以外にも多数の水路が存在し、これら水路の総延長は全て合わせると約180km近くに及ぶ。
隣接している自治体
歴史
- 1605年(慶長10年) 甲州街道が整備され、日野宿定まる。
- 1871年(明治4年) 廃藩置県に伴い日野宿、神奈川県に編入。
- 1878年(明治11年) 多摩郡が分割され日野宿は南多摩郡に属す。初代郡長に日野宿の佐藤俊正(彦五郎、土方歳三の義兄)が任命される。
- 1889年(明治22年) 町村制施行に伴い、日野宿の全域と粟巣村、西長沼村の一部(それぞれ残部は桑田村、由井村に編入)が合併し、日野宿が名称をそのままに自治体として発足。
- 1893年(明治26年) 三多摩が神奈川県から東京府に編入。日野宿を日野町(初代)と改称。
- 1901年(明治34年) 桑田村と合併し、改めて日野町(2代目)を新設。
- 1943年(昭和18年) 東京都制施行。
- 1946年(昭和21年)3月1日 昭和天皇が町内に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)[2]。
- 1958年(昭和33年) 七生村と合併し、改めて日野町(3代目)を新設。現在の市域となる。
- 1963年(昭和38年) 市制施行(11月3日/全国559番目)
- 1993年(平成5年) 7月8日、防災行政無線運用開始。
- 2015年(平成27年) 3月2日、防災行政無線放送等変更。
- 2020年(令和2年)財政非常事態宣言[3]を発出。
市名の由来
市名の由来は諸説あるがはっきりしていない。『武蔵名勝図会』によれば、府中にあった国府の烽火台が置かれたことによるという「飛火野説」をとっている。和銅6年火野を日野に改めたという。また、『新編武蔵風土記稿』によれば、武蔵七党のうち西党の祖日奉宗頼が、遠祖天御中主神を勧請して日野宮権現を祀ったという伝説に基づくという[4]。他の説として、応永33年ころ、日野中納言資朝の玄孫、宮内資忠なるものが、当所に移住して土淵ノ庄をはじめて日野と号したという説も載せている[4][5]。
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昭島市 立川市 | 国立市 | ![]() | |
八王子市 | ![]() |
府中市 | ||
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多摩市 |
注釈
出典
- ^ “No.32 黒川湧水(日野市)”. 東京都環境局. 2016年3月8日閲覧。
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、90頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ “財政非常事態宣言のお知らせ”. 日野市公式ホームページ. 2023年6月9日閲覧。
- ^ a b 新編武蔵風土記稿 日野本郷.
- ^ 「日野市史史料集地誌編」 所収
- ^ 東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行152-153ページ
- ^ 歴代知事編纂会 1983, 987-990頁.
- ^ 姉妹都市・岩手県紫波町 日野市[リンク切れ]
- ^ 姉妹都市・レッドランズ 日野市[リンク切れ]
- ^ 選べる学校制度 日野市[リンク切れ]
- ^ 「選べる学校制度」に定員制を導入 日野市[リンク切れ]
- ^ 平成20年度学校給食文部科学大臣表彰被表彰者一覧 個人」 文部科学省
- ^ 平成23年度学校給食表彰被表彰者一覧【学校】」 文部科学省
- ^ 路線バス のりば案内 - 日野駅 西東京バス、2023年9月23日閲覧。
- ^ “「女子高生の無駄づかい」のビーノが描く東京都日野市が舞台のあるあるコメディ”. コミックナタリー (2019年8月10日). 2021年1月5日閲覧。
固有名詞の分類
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