香淳皇后
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年譜
- 1903年(明治36年)3月6日、東京府麻布区(現:東京都港区六本木)久邇宮邸にて、誕生。
- 1907年(明治40年)9月、学習院女学部幼稚園入園。
- 1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。
- 1915年(大正4年)、学習院女学部中学科入学。
- 1918年(大正7年)1月14日、皇太子裕仁親王の妃に内定。
- 1924年(大正13年)1月26日、皇太子裕仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。
- 1925年(大正14年)12月6日、照宮成子内親王(第1子/長女)を出産。
- 1926年(大正15年)12月25日、皇太子裕仁親王の践祚に伴い立后(第124代天皇后:皇后冊立)。
- 1927年(昭和2年)9月10日、久宮祐子内親王(第2子/次女)を出産。
- 1929年(昭和4年)9月30日、孝宮和子内親王(第3子/三女)を出産。
- 1931年(昭和6年)3月7日、順宮厚子内親王(第4子/四女)を出産。
- 1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王(第5子/長男)を出産。
- 1935年(昭和10年)11月28日、義宮正仁親王(第6子/次男)を出産。
- 1939年(昭和14年)3月2日、清宮貴子内親王(第7子/五女)を出産。
- 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる(皇太后冊立)。
- 2000年(平成12年)6月16日、皇居・吹上大宮御所にて崩御。97歳没。
皇子女
昭和天皇との間に、2男5女の7人の皇子女を出産し儲ける。うち成人したのは、2男4女の6人。
御称号及び 諱・身位 |
読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
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照宮成子内親王 | てるのみや しげこ | 1925年(大正14年)12月6日 | 1961年(昭和36年)7月23日(満35歳没) | 第1皇女子 (第1子) |
盛厚王(東久邇宮家)と結婚後、 盛厚王妃成子内親王となる。 戦後の皇籍離脱後は、 東久邇成子(姓読み:ひがしくに)となる。 子女:3男2女(5人)。 | |
久宮祐子内親王 | ひさのみや さちこ | 1927年(昭和2年)9月10日 | 1928年(昭和3年)3月8日(満0歳没) | 第2皇女子 (第2子) |
久宮祐子内親王、夭折。 子女:無し。 | |
孝宮和子内親王 | たかのみや かずこ | 1929年(昭和4年)9月30日 | 1989年(平成元年)5月26日(満59歳没) | 第3皇女子 (第3子) |
鷹司平通と結婚 皇籍離脱後、鷹司和子(姓読み:たかつかさ)となる。 (皇室典範第12条[145]の規定による) 子女:無し、養子:1男(1人)。 | |
順宮厚子内親王 | よりのみや あつこ | 1931年(昭和6年)3月7日 | 存命中(92歳) | 第4皇女子 (第4子) |
池田隆政と結婚 皇籍離脱後、池田厚子(姓読み:いけだ)となる。 (皇室典範第12条[145]の規定による) 子女:無し。 | |
継宮明仁親王 | つぐのみや あきひと | 1933年(昭和8年)12月23日 | 存命中(90歳) | 第1皇男子 (第5子) |
正田美智子と結婚 (→皇太子妃→皇后→上皇后美智子) 明仁(第125代天皇) 1989年(昭和64年)1月7日: 父である昭和天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 2019年(平成31年)4月30日に退位(譲位)、 上皇 (天皇退位特例法): 2019年(令和元年)5月1日 - 。 子女:2男1女(3人)。 | |
義宮正仁親王 | よしのみや まさひと | 1935年(昭和10年)11月28日 | 存命中(88歳) | 第2皇男子 (第6子) |
津軽華子(旧姓読み:つがる)と結婚 (→正仁親王妃華子)。 常陸宮正仁親王(常陸宮当主)皇位継承順位第3位[注釈 16]。 子女:無し。 | |
清宮貴子内親王 | すがのみや たかこ | 1939年(昭和14年)3月2日 | 存命中(84歳) | 第5皇女子 (第7子) |
島津久永と結婚 皇籍離脱後、島津貴子(姓読み:しまづ)となる。 (皇室典範第12条[145]の規定による) 子女:1男(1人)。 |
系譜
香淳皇后 | 父: 邦彦王(久邇宮) |
祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
曾祖父: 邦家親王(伏見宮) |
曾祖母: 鳥居小路信子 | |||
祖母: 泉萬喜子 |
曾祖父: 泉亭俊益 | ||
曾祖母: 不詳 | |||
母: 俔子 |
祖父: 島津忠義 |
曾祖父: 島津久光 | |
曾祖母: 島津千百子 | |||
祖母: 山崎寿満子 |
曾祖父: 山崎拾 | ||
曾祖母: 不詳 |
- ^ 伏見宮の血統に属する皇族(伏見宮系皇族)としては唯一。なお、伏見宮系皇族から皇族妃になった者には、香淳皇后(良子女王)の他に山階宮妃佐紀子女王(賀陽宮家出身)、久邇宮妃知子女王(伏見宮家出身)の2名がいる。
- ^ 皇孫御用掛として、迪宮・淳宮・光宮の三兄弟に仕え、退下後は鈴木貫太郎の後妻となった(本人の項を参照)。
- ^ 昭和天皇に長く仕えた入江相政の父
- ^ 昭和天皇を含む大正天皇の皇男子に、男子がいない状態。ただ当時は、伏見宮系の各宮家(旧皇族)に多数の男系男子が存在していた。
- ^ 島津珍彦の次女で、香淳皇后の従叔母にあたる。
- ^ 実際に立太子の礼により立太子したのは、明仁親王が満18歳の成年を迎えた後の1952年(昭和27年)11月10日である。
- ^ 北白川宮能久親王の三女で、保科正昭子爵に降嫁。
- ^ 1943年(昭和18年)7月1日、東京府と東京市を統合(東京都の歴史を参照)。
- ^ 香淳皇后の父邦彦王の同母姉安喜子女王が、隆政の祖父池田詮政に降嫁しているため、厚子内親王と隆政は曾祖父久邇宮朝彦親王を同じくする又いとこ(はとこ)同士となる。
- ^ 後年、『皇后さま』の姉妹編である『美智子さま』が問題化されたのと異なり、『皇后さま』は天皇の戦争責任論にも触れているにもかかわらず宮内庁から問題視されず、単行本化もされ、昭和末期にも再版されている[125]。
- ^ 秩父宮妃の実母で、梨本宮妃伊都子の妹にあたる。
- ^ 北白川宮永久王の妃で、永久王との死別を経て、戦後臣籍降下。徳川義寛侍従長とは兄妹同士、常陸宮妃華子の伯母。
- ^ のち侍従長。常陸宮妃華子の叔父、北白川祥子女官長とは兄妹同士。
- ^ 1990年1月7日 朝日新聞「皇太后さまは権殿で拝礼へ 昭和天皇崩御から1年」などに"老人特有の症状"との表現が見られる。なお、「認知症」という病名が使用されるようになったのは2004年以降で、香淳皇后の生前は一般社会では「痴呆(ちほう)」と呼ばれていた。
- ^ 日本現存最古の漢詩集。天平勝宝3年(751年)成立。撰者未詳。7世紀後半~8世紀中ごろ(白鳳時代~奈良時代中ごろ)の天皇(弘文天皇・文武天皇)・皇族・諸臣・僧侶の詩を収める。
- ^ 第1位:(皇嗣) 秋篠宮文仁親王(57歳)、第2位:悠仁親王(17歳)、第4位以降は不在。
固有名詞の分類
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