香淳皇后 逸話

香淳皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/28 07:32 UTC 版)

逸話

1958年(昭和33年)6月皇居内で養蚕する香淳皇后
  • 「おおらかでおっとりとした円満な性格の持主である」と言われ、昭和天皇との夫婦仲は「まことに良かった」と伝えられる。昭和天皇は香淳皇后のことを「良宮ながみや」と呼び、香淳皇后は昭和天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んだ。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な良妻賢母の女性で、それだけに昭和天皇も、よく香淳皇后のことを気遣ったらしい。
  • 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、河原敏明は『文藝春秋』(1979年(昭和54年)2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。
  • 「天皇と皇后の晩年の御楽しみは、皇居や御用邸内を2人で御散歩になられることで、植物を好まれた天皇がよく皇后に説明をせられながら歩かれた」という。また分かれ道に来ると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「お上のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。
  • 朝食のひとときにNHK連続テレビ小説を視聴するのが好きだった天皇に付き合って、この番組をよく見ていた。一方、皇后本人は奈良漬けを好んでいたことから、「朝食をはじめ日常の食事では奈良漬けがしばしば添えられた」という(夫・昭和天皇は特に漬物の好みは強くなかった)。
  • 活発で開明的な姑・貞明皇后とは、性格の相違・出自の相違(貞明皇后が華族である九条家側室の子であるのに対し、香淳皇后は久邇宮家嫡出の皇族であった)もあってうまくゆかず、特に結婚した当初は嫁姑関係に悩んだとも言われる。
    • 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数か月前、皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と共に療養先である葉山御用邸に見舞った際である。香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。
  • 刺繍日本画観世流)、バラの栽培、ピアノなど多趣味であった。
  • 特に日本画は玄人はだしで、結婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後、川合玉堂前田青邨に師事、1956年(昭和31年)以降はよく宮内庁職員美術展に出品した。号を「桃苑」といい、皇居東御苑にある桃華楽堂はこの号に由来する。画集は以下がある。
  • バラは皇后自ら鋏を取り、枝の剪定などを行っていた。皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育に任せて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口を挟むことはなかった。
  • 1971年(昭和46年)秋に、郵政省発行の「天皇皇后両陛下御訪欧記念切手」で、所縁の図案として、皇后画「海の彼方」が用いられた。
  • 1971年(昭和46年)の訪欧、1975年(昭和50年)の訪米のドレス一式の制作はフランスのデザイナーのピエール・バルマン英語版[146]
  • 晩年の動静は、皇太后宮職侍従も務めた卜部亮吾が遺した『卜部亮吾侍従日記』(全5巻、朝日新聞出版)に詳しい。卜部は「斂葬の儀」の祭官長を務め、2002年(平成14年)に没した。
  • 和光堂のホームページには和光堂と皇室の関りが記載されていて、皇后が第五皇女の清宮さまをお育ての際グリスメール(日本初の離乳食)を温める時に少ない量を鍋にかけ焦がしてしまい「使い方が難しいものですね」と苦笑いなされたという微笑ましい話が残されている。

  1. ^ 伏見宮の血統に属する皇族(伏見宮系皇族)としては唯一。なお、伏見宮系皇族から皇族妃になった者には、香淳皇后(良子女王)の他に山階宮妃佐紀子女王賀陽宮家出身)、久邇宮妃知子女王伏見宮家出身)の2名がいる。
  2. ^ 皇孫御用掛として、迪宮・淳宮・光宮の三兄弟に仕え、退下後は鈴木貫太郎の後妻となった(本人の項を参照)。
  3. ^ 昭和天皇に長く仕えた入江相政の父
  4. ^ 昭和天皇を含む大正天皇の皇男子に、男子がいない状態。ただ当時は、伏見宮系の各宮家(旧皇族)に多数の男系男子が存在していた。
  5. ^ 島津珍彦の次女で、香淳皇后の従叔母にあたる。
  6. ^ 実際に立太子の礼により立太子したのは、明仁親王が満18歳の成年を迎えた後の1952年(昭和27年)11月10日である。
  7. ^ 北白川宮能久親王の三女で、保科正昭子爵に降嫁。
  8. ^ 1943年(昭和18年)7月1日、東京府東京市を統合(東京都の歴史を参照)。
  9. ^ 香淳皇后の父邦彦王の同母姉安喜子女王が、隆政の祖父池田詮政に降嫁しているため、厚子内親王と隆政は曾祖父久邇宮朝彦親王を同じくする又いとこ(はとこ)同士となる。
  10. ^ 後年、『皇后さま』の姉妹編である『美智子さま』が問題化されたのと異なり、『皇后さま』は天皇の戦争責任論にも触れているにもかかわらず宮内庁から問題視されず、単行本化もされ、昭和末期にも再版されている[125]
  11. ^ 秩父宮妃の実母で、梨本宮妃伊都子の妹にあたる。
  12. ^ 北白川宮永久王の妃で、永久王との死別を経て、戦後臣籍降下徳川義寛侍従長とは兄妹同士、常陸宮妃華子の伯母。
  13. ^ のち侍従長。常陸宮妃華子の叔父、北白川祥子女官長とは兄妹同士。
  14. ^ 1990年1月7日 朝日新聞「皇太后さまは権殿で拝礼へ 昭和天皇崩御から1年」などに"老人特有の症状"との表現が見られる。なお、「認知症」という病名が使用されるようになったのは2004年以降で、香淳皇后の生前は一般社会では「痴呆(ちほう)」と呼ばれていた。
  15. ^ 日本現存最古の漢詩集。天平勝宝3年(751年)成立。撰者未詳。7世紀後半~8世紀中ごろ(白鳳時代~奈良時代中ごろ)の天皇(弘文天皇文武天皇)・皇族・諸臣・僧侶の詩を収める。
  16. ^ 第1位:(皇嗣) 秋篠宮文仁親王(57歳)、第2位:悠仁親王(17歳)、第4位以降は不在。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「香淳皇后」の関連用語

香淳皇后のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



香淳皇后のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの香淳皇后 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS