ザンビア 国名

ザンビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 18:24 UTC 版)

国名

正式名称は英語で、Republic of Zambia(リパブリック・オブ・ザンビア)。通称、Zambia(ザンビア)。国名は、国の西部から南部を流れるザンベジ川に因んでいる。日本語の表記は、ザンビア共和国。通称はザンビア。かつては北ローデシアと呼ばれていた。

歴史

独立前

1798年にこの土地に進出していたポルトガルは、1830年代から大西洋岸のアンゴラ植民地とインド洋岸のモザンビークを結ぶべく、内陸のザンビアへの探検を本格化させ、シルヴァ・ポルトのような探検家がこの地を訪れた。他方、19世紀半ばにはイギリスもこの地への関心を深め、1855年にこの地を訪れた探検家にしてキリスト教宣教師であったデイヴィッド・リヴィングストンは「モーシ・オワ・トゥーニャ」の滝をヨーロッパ人として初めて「発見」し、当時のイギリスのヴィクトリア女王の名に因んで「ヴィクトリアの滝」と名付けた。

1880年代に入ってヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進むと、アフリカを横断しようとするポルトガルの利害は、カイロからケープタウンまでアフリカを縦断しようとしていたイギリスのそれと真向から衝突した。ボーア人アフリカーナー)の機先を制してアフリカ内陸部の土地を占有しようとしたセシル・ローズの意向によりイギリスはローデシアからザンベジ川上流とニヤサ湖の間の地域の統治権を確立した後、1889年10月29日南アフリカ会社を設立した[5]。ローズは、更にアフリカ内陸部への領有意識を拡大し、1890年3月にベチュアナランド警察隊の将校ロシュナーはザンベジ川を渡ってロヅィ族の王レワニカとの間で「ロシュナー協定」を締結した。このロシュナー協定によって1891年までにイギリス南アフリカ会社はレワニカ王の統治権が及んでいたバロツェランド一帯に行政権を及ぼした[6]。また、イギリスは1890年1月11日にポルトガルに対して最後通牒を出し、現在のザンビアとジンバブエマラウイに相当する地域に展開していたポルトガル軍を撤収させて、現在とジンバブエとザンビアに相当する地域の植民地化を決定的なものとした[7]。この事件はポルトガル本国での共和主義者によるアフリカ内陸部を結ぶ「バラ色地図」計画に失敗した王政への批判を招き、1910年10月5日革命の遠因ともなった[8]

1912年のアフリカ

1898年6月25日に初のヨーロッパ人移民があった後、1900年にバロツェランド・北西ローデシア立法審議会が開かれ、この地はイギリスの保護領となった。在地のレワニカ王はその後も一定の権力を保ち、レワニカ王は1906年にバロツェランドの奴隷制を廃止した[9]。その後20世紀初頭には、ツェツェ蠅が多く、農業に適していなかったこの北ローデシアの地へのヨーロッパ人の入植は進まず、鉄道も建設されなかった[10]

1924年にイギリスはこの地を北ローデシア保護領として直轄植民地化した。1925年にカタンガの国境付近での大鉱脈(カッパーベルト)が発見されると、それまで開発の進んでいなかった北ローデシアには1929年にローデシア・アングロ・アメリカン社(AAC)とローデシア・セレクション・トラスト社(RST)が銅開発に乗り出し、1930年にはアフリカ人銅山労働者の人数は23,000人に達した[11]。北ローデシアの銅経済は1929年世界恐慌勃発と1931年11月の銅価格の暴落を乗り切り、その経済的な好調は南ローデシアに居住していた白人入植者の目をこの地に向けることになった[12]

北ローデシアは、1953年に南ローデシア(現在のジンバブエ)に入植したイギリス系白人主導で、南ローデシア、ニヤサランド(現在のマラウイ)と共にローデシア・ニヤサランド連邦に改編され、連邦初代首相にはハギンス英語版が就任した[13]1956年に第二代連邦首相に就任したロイ・ウェレンスキーの統治を経てローデシア・ニヤサランド連邦では葉タバコ生産やカリバ水力発電ダムの電力による工業化が急速に進んだが、連邦の経済政策が白人入植者の集中していた南ローデシアを優先する方針を取ったために黒人民族主義者の反発を招いて1963年に崩壊し、翌1964年7月にニヤサランドはバンダ首相の下でマラウイとして独立を達成、北ローデシアも在地のロヅィ族の王ムワナウイナ3世によるバロツェランドの分離独立運動を制した北ローデシア植民地政府首相ケネス・カウンダと統一民族独立党(UNIP)により、1964年10月24日にザンビアとしてイギリスから独立した[14]。そのため、1964年10月10日に開幕した東京オリンピックの大会期間中は北ローデシア代表として参加したが、閉幕日当日の10月24日が国家独立日となったために国名が変更されてザンビア代表となり、閉会式にはザンビア国旗を掲げて入場行進を行ったという逸話が残る[15]

独立後

独立直後に国際連合に加盟したザンビアは、国連の経済制裁決議に従ってアパルトヘイトを敷いていた南アフリカ共和国との経済関係を断ち、さらに1965年にローデシアイアン・スミス首相の下で一方的独立宣言を行うと、対ローデシア経済封鎖にも加わった[16]。両国に大きく経済的に依存していたザンビア経済は大打撃を受け、さらに内陸国であったザンビアはそれまで行っていたローデシア鉄道を用いた銅輸出への道を絶たれた。1969年8月にカウンダ政権は外資系銅企業の国有化政策を進め、1970年7月にはタンザニア、中華人民共和国の援助でローデシアを経由しない銅輸出のためのタンザン鉄道の建設が調印された[17]。また、1970年2月にカウンダは国内の部族主義を克服するため[18]、統一民族独立党(UNIP)による一党制を樹立した。

1973年にカウンダはローデシアとの国境を完全に封鎖し、さらに銅企業の国有化政策を推進した。外交面でカウンダはポルトガルからの独立を目指すモザンビーク解放戦線(FRELIMO)やアンゴラ国民解放戦線(FNLA)を支援しており、1974年4月25日にポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊すると、9月にFRELIMOとポルトガル新政府を仲介してルサカ合意英語版を実現させた。西の隣国アンゴラの独立に際しては、1975年11月のアンゴラ解放人民運動(MPLA)主導での独立達成当初は中立を表明したが、翌1976年4月にMPLA政権を承認した[19]。一方で、イギリス連邦の枠の中には残った。1979年には首都ルサカでイギリス連邦の首脳会議(コモンウェルス首脳会議)が開催されている[20]

ザンビアは独立以来一貫して銅に依存した経済構造を有しており、独立直後の国家収入の1/3、輸出品の90%が銅に関連したものであった[21]。政府主導での農業部門の拡大による経済の多角化が唱えられながらも小農の形成は進まなかった。このような経済構造が災いして、1970年代後半の銅価格低迷はザンビアの経済に大打撃を与え、1980年代のザンビアは経済的に低迷し続けた[22]。1982年、AAC とRST が合併して Zambia Consolidated Copper Mines Limited(ZCCM)となった。国民は銅価格の低下に起因するザンビア経済の凋落に不満を示した。1986年12月には暴動が発生、1989年にはカウンダの与党統一民族独立党(UNIP)一党制に対して公然と複数政党制を要求する声が挙がり、1990年6月の暴動を経て同1990年7月20日には複数政党制民主主義運動(MMD)が結成された。1991年に複数政党制を導入した選挙で与党UNIPはフレデリック・チルバ率いる複数政党制民主主義運動(MMD)に敗れ、カウンダ政権は終焉した[23]

新たに就任したチルバ大統領は経済の自由化を進め、ZCCMを1997年から2000年にかけて8つの事業へ段階的に民営化するなどの改革を行ったが経済は好転せず、汚職が恒常化しクーデターが試みられるなど政治は不安定化した。

2002年にMMDからレヴィー・ムワナワサが大統領に就任した。ムワナワサ大統領は2006年の大統領選挙でザンビアへの経済進出著しい中国と中国人の排斥を唱えた野党・愛国戦線のマイケル・サタ候補を制した[24]

その後ムワナワサ大統領は任期中の2008年に死去し、その後の大統領選でMMDのルピヤ・バンダ大統領代行が当選した[25]。2011年の大統領選には当時の現職のバンダ大統領代行を破ったマイケル・サタ候補が当選し、政権交代が起きたものの、サタ大統領もまた任期中の2014年10月28日に英国ロンドンで死去した。副大統領で白人のガイ・スコットが暫定大統領に就任した[26]のち、与党・愛国戦線のエドガー・ルングが、選挙を経て2015年1月25日に第6代大統領に就任した。

2020年、ザンビア政府は同年10月14日に支払期限を迎える外貨建て国債の利払いについて、債権者との間で翌年へ延期するよう協議を行っていたがまとまらず、2020年11月13日に事実上、債務不履行状態に陥った[27]

こうした経済悪化と中国依存への不満から、2021年の大統領選挙でルングは敗れ、野党である国家開発統一党の党首ハカインデ・ヒチレマの当選が2021年8月16日に同国選挙管理委員会から発表された[28]

政治

ザンビアは共和制大統領制をとる立憲国家で、現行憲法1991年8月24日に公布(1996年改正)されたものである。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。1996年の憲法改正により3選禁止事項が盛り込まれた。閣僚は大統領が国民議会議員の中から任命する。首相職は1991年8月31日に廃止された。

立法府一院制で、正式名称は国民議会。定数は158議席で、うち150議席は国民の直接選挙により選出され、8議席は大統領による任命制である。議員の任期は5年である。

1991年からザンビアは複数政党制が認められている。2018年時点の与党は革新政党である愛国戦線(PF)であり、最大野党は自由主義政党の国家開発統一党(UPND)である。前与党の複数政党制民主主義運動(MMD)は2016年の選挙で大敗し小政党に転落している。旧一党支配政党の統一民族独立党(UNIP)は存在はしているものの、議席は獲得できていない。


注釈

  1. ^ ただし、ボツワナとはザンベジ川上で100mほど接しているに過ぎない。

出典

  1. ^ Constitution of Zambia (Amendment), 2016-Act No. 2.pmd”. 2017年9月6日閲覧。 - ザンビア憲法(2016年改正版)、記載は「PART XX GENERAL PROVISIONS」の258.
  2. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年11月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年11月7日閲覧([1]
  4. ^ 『アフリカを知る事典』(平凡社ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日初版第1刷)p.183
  5. ^ 星、林 1988, pp. 99–101.
  6. ^ 星、林 1988, pp. 106–109.
  7. ^ 金七 2003, p. 190.
  8. ^ 金七 2003, pp. 189–191.
  9. ^ 星、林 1988, p. 108.
  10. ^ 星、林 1988, pp. 123–124.
  11. ^ 星、林 1988, pp. 153–154.
  12. ^ 星、林 1988, pp. 155–157.
  13. ^ 星、林 1988, pp. 197–200.
  14. ^ 星、林 1988, pp. 200–206.
  15. ^ "64年東京のいまを歩く(9) 長い五輪史上初 閉会式当日に生まれた新国家ザンビア". 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2 June 2015. pp. 1–2. 2019年11月18日閲覧
  16. ^ 星、林 1988, p. 232.
  17. ^ 星、林 1988, pp. 233–234.
  18. ^ 星、林 1988, pp. 235.
  19. ^ 星、林 1988, p. 238.
  20. ^ サッチャー首相、ルサカへ『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月31日 13版 7面
  21. ^ 「銅に揺れるザンビア 価格低迷で窮地 活路開くか農業革命」『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月21日朝刊13版9面
  22. ^ 小倉充夫『労働移動と社会変動――ザンビアの人々の営みから』(有信堂、1995年11月5日初版第1刷発行)63-78頁
  23. ^ 小倉充夫『労働移動と社会変動――ザンビアの人々の営みから』(有信堂、1995年11月5日初版第1刷発行)129-143頁
  24. ^ 小倉充夫『南部アフリカ社会の百年――植民地支配・冷戦・市場経済』(東京大学出版会、2009年2月20日初版)192頁
  25. ^ 「ザンビア大統領選、与党バンダ氏が当選」AFPBB News(2008年11月2日)2018年11月10日閲覧
  26. ^ 「ザンビア暫定大統領にスコット氏、アフリカで20年ぶり白人元首」AFPBB News(2014年10月30日)2018年11月10日閲覧
  27. ^ ザンビア、債務不履行状態 外貨建て国債、利払いできず”. 時事通信 (2020年11月14日). 2020年11月13日閲覧。
  28. ^ 「ザンビア大統領選、ヒチレマ氏が初当選 対中債務への対応課題」日本経済新聞ニュースサイト(2021年8月17日)同日閲覧
  29. ^ 毎日新聞』朝刊2021年6月27日:中国製空港 草原に威容/ザンビア 資源国「債務のわな」術中(1面)および「ザンビア 中国の借金漬け/財政破綻 市民ら窮地」(3面)
  30. ^ ザンビア基礎データ 日本国外務省
  31. ^ 『アフリカを知る事典』(平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日初版第1刷)p.183
  32. ^ ザンビアが債務不履行、コロナ下でアフリカ初”. 日本経済新聞 (2023年11月14日). 2023年12月26日閲覧。
  33. ^ ザンビアが公的セクターと60億ドル強の債務再編に合意=仏政府高官”. ロイター (2023年6月23日). 2023年12月26日閲覧。
  34. ^ a b c d e f 『データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計』(二宮書店 平成28年1月10日発行)p.277
  35. ^ JICAの現場から(49)ザンビア大学と連携日刊工業新聞』2018年8月10日(4面)2018年10月26日閲覧
  36. ^ 大山修一「ザンビアの領土形成と土地政策の変遷」p.83(武内進一編『アフリカ土地政策史』所収)アジア経済研究所、2015年11月13日発行
  37. ^ 江木慎吾「農業急成長の影に、250人の@ルサカ - ニュース特集朝日新聞デジタル
  38. ^ 平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書、2013年1月25日発行)pp.143-144
  39. ^ 鍋屋史朗「ザンビアにおける食料安全保障と農業投資状況」『ARDEC』47号(一般財団法人日本水土総合研究所、2012年12月)2018年11月10日閲覧
  40. ^ Zambeef - アフリカ成長企業ファイル アジア経済研究所(2018年10月26日閲覧)
  41. ^ 一般社団法人海外鉄道技術協力協会著『世界の鉄道』(ダイヤモンド・ビッグ社 2015年10月2日初版発行)pp.354-355
  42. ^ 在ボツワナ日本大使館『ボツワナ月報 2014年09月』p.5(2018年11月17日閲覧)
  43. ^ 一般財団法人 国際臨海開発研究センター(OCDI)OCDI-Vol5.pdf 『OCDI 2014年夏号』p.17( 2018年11月17日閲覧)
  44. ^ Census of Population and Housing National Analytical Report 2010. Central Statistical office, Zambia
  45. ^ a b c d e f g Africa :: Zambia — The World Factbook - Central Intelligence Agency CIA World Factbook "Zambia" 2018年11月18日閲覧
  46. ^ 『マラウィを知るための45章』p.28(栗田和明)明石書店、2004年
  47. ^ ザンビア大学付属教育病院医療機材整備計画事前評価表国際協力機構ホームーページ) (PDF)
  48. ^ 「自分の大義を胸に」 横浜を退団した中町公祐がザンビアリーグ移籍を発表! サッカーダイジェストweb 2019年02月04日






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