ローデシア・ニヤサランド連邦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 地域・地名 > 国家・自治体 > 国名 > 過去のアフリカの国 > ローデシア・ニヤサランド連邦の意味・解説 

ローデシア・ニヤサランド連邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 06:17 UTC 版)

ローデシア・ニヤサランド連邦
英語: Federation of Rhodesia and Nyasaland


1953年 - 1963年

国旗 (国章)
国の標語: Magni Esse Mereamur
国歌: 女王陛下万歳

ローデシア・ニヤサランド連邦
公用語 英語
首都 ソールズベリ
女王
1953年8月1日 - 1963年12月31日 エリザベス2世
総督
1953年9月4日 - 1957年1月24日 ジョン・ジェスティン・ルウェリン
1957年10月8日 - 1963年5月 サイモン・ラムゼイ
1959年12月28日 - 1963年12月31日 ハンフリー・ギブス
面積
1960年 1,254,929km²
人口
8,320,000人
変遷
成立 1953年8月1日
解体 1963年12月31日
通貨 ローデシア・ニヤサランド・ポンド
現在 マラウイ
ザンビア
ジンバブエ
ローデシア・ニヤサランド連邦で使われたコイン

ローデシア・ニヤサランド連邦(ローデシアニヤサランドれんぽう、: Federation of Rhodesia and Nyasaland)もしくは中央アフリカ連邦: Central African Federation)は、かつて存在していたアフリカ南部の旧イギリス領地域。現在のザンビアジンバブエマラウイに当たる。人口832万人、面積1,254,929km²(1960年)だった。

歴史

第二次世界大戦後南ローデシアでは白人の移民が増え、農業や製造業が盛んとなった。加えてカッパーベルトによる銅鉱山で潤っていた北ローデシア黒人の労働者の供給元となっていたニヤサランド(現在のマラウイ)との結びつきが強まり、南北ローデシアにニヤサランドを含めて統一した国家を樹立しようとする動きが白人を中心に活発化した。当初反対していたイギリスも黒人による植民地独立運動への活発化を抑える目的から、連邦制を布いて各地域の独自政策を残すことや連邦結成後も北ローデシアとニヤサランドは引き続きイギリスの保護領として残すことで同意し、1953年にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。言わば半独立国であり、イギリス、連邦機関、各保護領がそれぞれのレベルで統治を行った。

形式上は全ての人種に参政権が認められていたが、有権者登録で白人が絶対的に有利な立場に立ち、実質アパルトヘイト政策と変わらなかった。加えて諸政策が南ローデシア中心で行われていたため圧倒的多数を占めた黒人の反発は激しく、1959年にはニヤサランドで反乱が勃発(程なく鎮圧)。北ローデシアでは鉱山労働者のストライキが頻発し、1960年代にアフリカ諸国が相次いで独立する様になると北ローデシアとニヤサランドは連邦離脱の動きを強める。

このため、南ローデシアの白人層も連邦制を諦めて白人の利権確保に専念すべしと言う意見が大勢となり、1963年に連邦は解体。翌年7月にはニヤサランドがマラウイとして、10月には北ローデシアがザンビアとしてそれぞれ独立を果たす。残った南ローデシアは白人政権によるローデシア共和国を経て、1980年にジンバブエとして独立する。

関連項目

外部リンク


ローデシア・ニヤサランド連邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:32 UTC 版)

マラウイの歴史」の記事における「ローデシア・ニヤサランド連邦」の解説

詳細は「ローデシア・ニヤサランド連邦」を参照 1940年代後半飛躍的な経済発展遂げた南ローデシアは、北ローデシア資源ニヤサランド黒人労働力獲得、および、アフリカ人民族主義阻害する目的で、これら3つのイギリス領による連邦制構築主張し、これを受けて1953年8月1日にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。しかし、成立した連邦では南ローデシア白人入植者優遇する政策多く人口99%以上を黒人占めニヤサランドには連邦制メリット少なかったことや、アフリカ諸国独立へ機運高まっていたことがあり、1959年にはニヤサランド内で叛乱発生することとなったまた、その前年1958年7月29日には、アメリカテネシー州のナッシュビルにあるメハリー医科大学en:Meharry Medical College)で1937年学位取得しイギリスガーナ診療所開いていたヘイスティングズ・カムズ・バンダニヤサランド帰国その後すぐにニヤサランドアフリカ人会議指導者へ就任した。同会議翌年バンダを含む主要メンバー逮捕により瓦解しかけるが、逮捕されなかった残りメンバーによりマラウイ会議党 (MCP) が結成された。バンダ北ローデシアグウェロ刑務所Gwelo Prison)へ送られたものの、翌1960年には出所してマラウイ会議党指導者に就任するとともにロンドン行われた連邦憲法に関す協議会出席した1961年4月15日バンダ率いマラウイ会議党は、新たに制定され憲法の下で行われた1961年ニヤサランド立法議会選挙圧勝したバンダ立法議会重要な役割得て1年後1962年には実質的なニヤサランド統治者となっていた。また、1962年11月ロンドン第2回目憲法協議会が行われ、イギリス政府は翌1963年からニヤサランドに、自治権与えることに同意した

※この「ローデシア・ニヤサランド連邦」の解説は、「マラウイの歴史」の解説の一部です。
「ローデシア・ニヤサランド連邦」を含む「マラウイの歴史」の記事については、「マラウイの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ローデシア・ニヤサランド連邦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ローデシア・ニヤサランド連邦」の関連用語

ローデシア・ニヤサランド連邦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ローデシア・ニヤサランド連邦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのローデシア・ニヤサランド連邦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマラウイの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS