ローデシア・ニヤサランド連邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 06:17 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2019年12月)
( |
- ローデシア・ニヤサランド連邦
- 英語: Federation of Rhodesia and Nyasaland
-
←
←
←1953年 - 1963年 →
→
→
(国旗) (国章) - 国の標語: Magni Esse Mereamur
- 国歌: 女王陛下万歳
-
ローデシア・ニヤサランド連邦 -
公用語 英語 首都 ソールズベリ 通貨 ローデシア・ニヤサランド・ポンド 現在 マラウイ
ザンビア
ジンバブエ
ローデシア・ニヤサランド連邦(ローデシアニヤサランドれんぽう、英: Federation of Rhodesia and Nyasaland)もしくは中央アフリカ連邦(英: Central African Federation)は、かつて存在していたアフリカ南部の旧イギリス領地域。現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに当たる。人口832万人、面積1,254,929km²(1960年)だった。
歴史
第二次世界大戦後の南ローデシアでは白人の移民が増え、農業や製造業が盛んとなった。加えてカッパーベルトによる銅鉱山で潤っていた北ローデシア・黒人の労働者の供給元となっていたニヤサランド(現在のマラウイ)との結びつきが強まり、南北ローデシアにニヤサランドを含めて統一した国家を樹立しようとする動きが白人を中心に活発化した。当初反対していたイギリスも黒人による植民地独立運動への活発化を抑える目的から、連邦制を布いて各地域の独自政策を残すことや連邦結成後も北ローデシアとニヤサランドは引き続きイギリスの保護領として残すことで同意し、1953年にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。言わば半独立国であり、イギリス、連邦機関、各保護領がそれぞれのレベルで統治を行った。
形式上は全ての人種に参政権が認められていたが、有権者登録で白人が絶対的に有利な立場に立ち、実質アパルトヘイト政策と変わらなかった。加えて諸政策が南ローデシア中心で行われていたため圧倒的多数を占めた黒人の反発は激しく、1959年にはニヤサランドで反乱が勃発(程なく鎮圧)。北ローデシアでは鉱山労働者のストライキが頻発し、1960年代にアフリカ諸国が相次いで独立する様になると北ローデシアとニヤサランドは連邦離脱の動きを強める。
このため、南ローデシアの白人層も連邦制を諦めて白人の利権確保に専念すべしと言う意見が大勢となり、1963年に連邦は解体。翌年7月にはニヤサランドがマラウイとして、10月には北ローデシアがザンビアとしてそれぞれ独立を果たす。残った南ローデシアは白人政権によるローデシア共和国を経て、1980年にジンバブエとして独立する。
関連項目
外部リンク
- 消滅した国々 - 中央アフリカ連邦(ローデシア・ニアサランド連邦) - ウェイバックマシン(2005年12月16日アーカイブ分)
- Institute of Rhodesian Army - ローデシアの歴史 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
ローデシア・ニヤサランド連邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:32 UTC 版)
「マラウイの歴史」の記事における「ローデシア・ニヤサランド連邦」の解説
詳細は「ローデシア・ニヤサランド連邦」を参照 1940年代後半、飛躍的な経済発展を遂げた南ローデシアは、北ローデシアの資源とニヤサランドの黒人の労働力の獲得、および、アフリカ人の民族主義を阻害する目的で、これら3つのイギリス領による連邦制の構築を主張し、これを受けて1953年8月1日にローデシア・ニヤサランド連邦が成立した。しかし、成立した連邦では南ローデシアの白人入植者を優遇する政策が多く、人口の99%以上を黒人が占めるニヤサランドには連邦制のメリットが少なかったことや、アフリカ諸国で独立への機運が高まっていたことがあり、1959年にはニヤサランド内で叛乱が発生することとなった。 また、その前年の1958年7月29日には、アメリカテネシー州のナッシュビルにあるメハリー医科大学(en:Meharry Medical College)で1937年に学位を取得し、イギリスとガーナで診療所を開いていたヘイスティングズ・カムズ・バンダがニヤサランドへ帰国。その後すぐにニヤサランドアフリカ人会議の指導者へと就任した。同会議は翌年にバンダを含む主要メンバーの逮捕により瓦解しかけるが、逮捕されなかった残りのメンバーによりマラウイ会議党 (MCP) が結成された。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所(Gwelo Prison)へ送られたものの、翌1960年には出所してマラウイ会議党の指導者に就任するとともに、ロンドンで行われた連邦の憲法に関する協議会に出席した。 1961年4月15日、バンダ率いるマラウイ会議党は、新たに制定された憲法の下で行われた1961年ニヤサランド立法議会選挙に圧勝した。バンダは立法議会で重要な役割を得て、1年後の1962年には実質的なニヤサランドの統治者となっていた。また、1962年11月にロンドンで第2回目の憲法協議会が行われ、イギリス政府は翌1963年からニヤサランドに、自治権を与えることに同意した。
※この「ローデシア・ニヤサランド連邦」の解説は、「マラウイの歴史」の解説の一部です。
「ローデシア・ニヤサランド連邦」を含む「マラウイの歴史」の記事については、「マラウイの歴史」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
過去のアフリカの国 |
カルタゴ コンゴ王国 ローデシア・ニヤサランド連邦 マリーン朝 ザンジバル人民共和国 |
- ローデシア・ニヤサランド連邦のページへのリンク