ゲーリッケ (Guericke, Otto von)
ゲーリッケという人は
オットー・フォン・ゲーリッケ
ドイツ、マグデブルグ市の名家に生まれる。ドイツの大学で数学、力学を学んだ後、ライデン大学やイギリス、フランスへも遊学し、1627年に帰国する。 建築技師としてマグデブルグ市に大きく貢献し、1646年、マグデブルグ市長に就任する。科学実験は彼の趣味であった。
ゲーリッケの主な経歴
ガリレイが空気に重さがあることを証明したことによって真空に興味を持ち始める。 樽を水で満たした後に密閉処理を施しポンプで水を抜いていったところ、樽がつぶれたとき、音を立てて空気を吸い込んだ。 木製の樽では壊れてしまうので、銅製の中が空洞になっている球状の容器を用いてみたが、ある点以上は大人4人がかりでもポンプのピストンが動かなくなった。
トリチェリの実験を自分でやってみると、ガラス管上部の真空としていた部分には、水銀中に溶け込んでいた空気が水銀から分離してたまっており、完全な真空になっていないことに気づいた。 これをヒントに、真空をつくるには密閉した空間から水や水銀を抜くのではなく空気を抜く必要があると気づき、各部分が密着して空気漏れしない構造の空気を抜くポンプを1650年に考案する。 当初、木製であった容器は後に金属へと変化する。現在のコンプレッサのような往復運動をするフイゴ型のピストンポンプである。
1654年、ローマ皇帝であるフェルディナンド3世の求めに応じ、銅の中空半球(ゲーリッケがマグデブルグ市長であったことからマグデブルグの半球と呼ばれている)を合わせて球とし真空ポンプで空気を抜き、両側から馬8頭ずつで引かせても離れないという実験を披露した。 さらに、球にわずかな空気を入れると簡単に離れることも実証した。 実験に感動したフェルディナンド3世は、研究結果を整理して出版するようゲーリッケに命じた。
ゲーリッケの起電機
1663年、摩擦起電機を発明する。 琥珀が羽毛を吸い寄せることに興味を持っていたゲーリッケは琥珀を強くこすり、これを他の物体に近づけるとパチパチと音を立てること、また暗闇ではわずかに光ることを発見し、もっと強い電気を求めた。 琥珀の代わりに硫黄を用い、直径25センチの硫黄球をつくり、これに軸をつけて焼き物のろくろのように回転させ、乾いた手を触れていくと強い電気が発生した。 何度でも電気を取り出せる機械としては世界初のものであり、この機械により火花放電現象などの確認や、後のフランクリン凧揚げ実験につながっていくことになる。
オットー・フォン・ゲーリッケ
真空中では音が伝わらないことや、ろうそくが燃えないこと、また、金属球内の空気をポンプで抜いてから球の重さを測定したらわずかに軽くなっていることも確認している。
当時は実験のような汚れる仕事は低級な肉体労働と考えられていたが、この頃から教養がある上流階級でも実験が行われるようになる。新しい発見への興味や関心が、それまでの労働という認識を変えてしまったようである。
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