70年安保・沖縄闘争
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「革命的共産主義者同盟全国委員会」の記事における「70年安保・沖縄闘争」の解説
1960年代後半からベトナム戦争は激しさを増していった。そして、世界各地では反戦運動が高まる中で、一貫してアメリカのベトナム戦争を支持していた当時の佐藤栄作首相が1967年(昭和42年)10月8日に、南ベトナムを訪問することになった。この時、佐藤栄作首相が羽田空港に行くのを途中で阻止しようとして、三派全学連(中核派、ブント、社青同解放派系自治会で構成する全学連)や反戦青年委員会が集まり、初めてヘルメットと角材で「武装」して、警察の機動隊を突破しようとした(「羽田闘争」)。 この事件以降、急進的な学生や青年労働者たちは、1968年(昭和43年)1月の佐世保基地における「原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」や同年の10.21国際反戦デー闘争(新宿騒乱)」など、「ベトナム反戦-日本の参戦国化阻止」を掲げて激しい街頭闘争を繰り広げることになる。 この時、中核派はこれらの闘争を70年安保の前哨戦と位置づけ、「激動の7ヶ月」と呼称して全力突入、その動員力、戦闘性において群を抜く存在だった。 また同時期、学生運動では当時世界的に広がったステューデント・パワーが、東大、日大をはじめ日本全国の大学にも波及し、全学ストライキとバリケード封鎖の嵐が巻き起こった。それは既成自治会を飛び越えて作られた「全学共闘会議」が主導することが多く、この時期の学生運動は「全共闘運動」とも呼ばれた。この流れに、中核派、及び、新左翼諸党派は、この「学生反乱」を「70年安保闘争」と一体のものとして参画していくことになる。 その後、中核派は警察の取り締まりによって組織が弱体化していき、1970年(昭和45年)6月の「日米安保条約」の自動延長に際しては「ゲバルト=街頭実力闘争」を手控えた。1971年には、中核派の戦闘力は回復し、ふたたび激しい街頭闘争を展開することになる。三里塚闘争における3月、9月の行政代執行(強制代執行)には、中核派は他の新左翼党派と同様に組織を挙げて現地闘争に参加した。 また、中核派は、同時期の「沖縄返還闘争」(中核派のスローガンは「沖縄奪還」)にも熱心に取り組み、「10.21国際反戦デー」、大坂正明が機動隊員を焼殺したとされる「渋谷暴動事件」、松本楼放火で警備員を殺害した「日比谷暴動事件」を起こした。 これらの事件は、「日本帝国主義はすでに政治的には崩壊状態であり、機動隊によってかろうじて維持されている機動隊国家である」という情勢認識に基づいている。したがって、「機動隊せん滅」という警察官を殺傷する行為は、中核派の戦う目的にも含まれ、それは公然とスローガンとして掲げられた。 この一連の「沖縄決戦」において中核派は大量の逮捕者を出したが、1968年(昭和43年)の時期と比べると大衆的な広がりをもったとは言えず政治的な成果は乏しいものだった。また、革マル派の武装襲撃とそれに対する報復もこの時期に激しさを増し、1970年日米安保・沖縄闘争における敗北感と路線喪失が次の時期の「内ゲバの季節」につながっていくのである。
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