1963年1月 - 2月
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「シルヴィア・プラス」の記事における「1963年1月 - 2月」の解説
亡くなる前にもプラスが何回か自殺未遂を繰り返していたことが知られている。1953年8月24日にプラスは母の家の地下室で睡眠薬をオーバードーズした。1962年6月には車で道を外れ川に突っ込んだ。警察による事故の取り調べで彼女は自殺未遂を認めている。 1963年1月にプラスはかかりつけ医のジョン・ホーダー (Dr John Horder) に相談をした。ホーダーは彼女のことをよく知る仲のいい友人でもあった。プラスは彼に、鬱状態が6、7ヶ月間続いていると語った。ホーダーの証言に基づくと、彼女が仕事を続けることのできた期間もほとんどの時間で気分の落ち込みが悪化し、「絶えざる焦燥感、希死念慮、日常生活に携わることができなくなるといった特徴」を伴う深刻な状態に陥っていた。また、プラスは不眠に悩み、夜に睡眠導入剤を服用したが早朝に目が覚めることもしばしばであった。また、体重も20ポンド(約7.4kg)減少したが、彼女は外見を取り繕い続け、鬱特有の罪悪感や無力感を言葉に出さなかった。 ホーダーはプラスが自殺する数日前に、抗鬱薬としてモノアミン酸化酵素阻害薬を処方している。また、彼女が幼い二人の子と孤立することは危険だと考え、彼女の家を毎日訪れていた。そのうえ、入院に同意させようと相当な努力を払っていたが、説得には失敗したため、とりあえず住み込みのナースを手配していた。なお、以上の証言に関して、抗鬱薬は効果が発揮されるまでに3週間かかる場合もあるので、ホーダーにより処方された薬は充分な効果が発揮されていなかった可能性があるという説がある。 1963年2月11日の朝、子どもの世話を補助するナースがプラスのフラットに午前9時に到着することになっていた。彼女は早めに到着したがフラットの中に入れなかったため、作業員の男性の手を借りて中に入ったところ、プラスがオーブンの中に頭を入れ、一酸化炭素中毒で死亡しているのを発見した。二人の子どもが寝ている部屋とプラスの遺体があった部屋との間の扉は、濡らしたタオルと布で目張りがされていた。プラスがオーブンの中に頭を差し入れてガスの元栓をひねったのは、早朝4:30ごろと推定された。死亡時満30歳であった。 プラスの自殺は意図的なものではなかったという説がある。階下の住人はプラスに自殺当日の朝、何時にお出かけですかと尋ねられていた。また、「ドクター・ホーダーに電話してください」と記された書付が、医師の電話番号と共に残されてもいた。プラスは本当に自殺するつもりではなかったとする説はこれらの点に留意して、階下の住人が書付を目にするであろう、ちょうどその時間にプラスはガスの栓をひねった、としている。しかしながら、プラスの親友であったジリアン・ベッカー(英語版)は、プラスの伝記 Giving Up: The Last Days of Sylvia Plath において、「検死を行った警察官によると、プラスはガスオーブンの中に自分の頭を深く差し入れていて、本当に死ぬつもりだったのだろう」と書いている。ホーダー医師も彼女の自殺の意志は固かったと考える。同医師は「隅々まで準備が行き届いたキッチンを見れば、彼女が理性を欠いた衝動に突き動かされたとしか解釈できないだろう」と主張する。プラスは生前、絶望の感情を「わたしの心臓をわしづかみにする梟の爪」のようなものと言い表したことがある。プラスの友人で文芸批評家のアル・アルヴァリーズ(英語版)は、1971年に書いた自殺に関する本の中で、彼女の自殺は助けを求める叫びであったが、それには誰も決して答えることのできないものとなってしまったと述べた。
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