1963州知事選挙
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「エドワード・ブレシット」の記事における「1963州知事選挙」の解説
1962年、それまで2度州知事を務めていたハッピー・チャンドラーが、前例のない3期目を求めて既に選挙運動を始めていた。反チャンドラー派は自派から候補者を出さなければ、チャンドラーが以前に言っていたように1963年の選挙でチャンドラーの利点になることを心配するようになった。派閥の指導者達は高規格道路コミッショナーのヘンリー・ウォードをしっかり後押ししていたが、コームズ知事はブレシットを考えるようになっていた。1962年5月2日、ブレシットが出馬宣言をしたが、多くの者はその若さと比較的経験が足りないことのために懐疑的だった。コームズが最終的に反チャンドラー派をブレシットで説得し、ウォードが候補者になることは無かった 。 チャンドラーは予備選挙の間に、経験の足りないブレシットよりもコームズ政権への攻撃に集中した。選挙上手であるチャンドラーはコームズ政権で成立した3%消費税を厳しく攻撃した。ブレシットは、チャンドラーが上院議員時代の第二次世界大戦で日本に対する宣戦布告に賛成票を投じたが、その後直ぐに予備役の任官を辞任したことに遡って非難した。さらにチャンドラーの義理の息子は、州政府からの恩恵を望む人々から選挙の寄付を集めていると非難した。この選挙運動が始まったときに、38歳と若かったブレシットは新しいメディアであるテレビにうまく適応したが、年配(65歳)のチャンドラーはそれができなかった。予備選挙では州内下院議員選挙区の1つを除いて全てを制し、6万票以上の差をつけて勝利した。チャンドラーが副知事候補に担いだハリー・リー・ウォーターフィールドが、ブレシットの副知事候補ジョン・B・ブレッキンリッジを容易に破って公認候補に指名されており、チャンドラーの敗北は派閥争いの結果というよりも、個人的な好き嫌いによるものであったことを示していた。この選挙でチャンドラーの政歴が終わることになった。 本選挙では、共和党候補者のルーイー・ナンと戦った。チャンドラーは予備選挙での敗北でもまだ拘りがあり、ナンを支持したので、ブレシットにとっては党内の支持を幾らか失うことになった。選挙戦中、ナンは、ケンタッキー州における公的施設を人種統合させたコームズ知事の発した行政命令を「行政命令による規則」だと攻撃した。ナンは「私の最初の行動はこれを廃止させることになる」と宣言した。ナンの宣言は民主党の中で幾らか支持を得たが、むしろ共和党の支持を失い、特に大都市ルイビル市で失っていた。「ニュー・レパブリック」がナンは、「ケンタッキー州で最初の明白な人種差別運動を行っている」と批判した。ブレシットは13,000票以上の差で選挙を制した。
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