1789年から1792年まで
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「フランス革命期における非キリスト教化運動」の記事における「1789年から1792年まで」の解説
1780年代のフランスの国家財政は疲弊の極に達しており、1789年5月、国王ルイ16世は財政問題の抜本的な立て直しのために3身分(聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による全国三部会をヴェルサイユに召集し、事態の改善をめざした。しかし貴族たちは新しい租税制度に反対したため、第三身分(平民)は自分たちこそがフランス国民の代表者であると主張し、みずからの会議を国民議会と称し、憲法が制定されるまではどんな圧力があっても議会を解散させないと誓って立憲王政をめざした。これに第一身分(聖職者)議員の大部分と第二身分(貴族)の一部の議員が合流し、1789年7月9日、憲法制定国民議会が発足した。7月14日、パリの群衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、ここを占拠してフランス革命の幕が切って落とされた。まもなく騒動はフランス全土におよび、後世「大恐怖」と称されるパニック状態が農村各地に広がった。国民議会は、オノーレ・ミラボーらの主導のもと、大恐怖に対応するため改革を急ぎ、8月4日、第一身分と第二身分が有していた特権を廃止した。議会はまた、8月26日、十分の一教会税の廃止を決議し、憲法前文として、ラファイエットらの起草による「人間と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)が採択された。以下は、その条文の一部である。 第4条(自由の定義・権利行使の限界) 自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。 第10条(意見の自由) 何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の株序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。 1789年10月10日、国民議会はカトリック教会が保有する土地と資産を押収し、これらを担保として債券アッシニアを発行し、これによって売却することを決定した。 1790年7月12日、行政権力の力で教会の粛正と再編を図る聖職者民事基本法(聖職者市民法)が議会を通過した。従来135あった司教区は新たに導入された県にあわせて83に削減され、18名いた大司教も10名までとされた。市町村の小教区も人口にあわせて再編された。聖職者の位階も単純化され、すでに有名無実化していた役職・聖職禄は全廃された。教区司祭と司教は、適性や資格が審査されたのち、行政単位ごとに俗人の選挙によって選ばれることとなった。これは行政改革の原則が教会組織にまで拡大されたことを意味している。聖職者民事基本法の本質は、教会は国家と市民社会に従属しなければならないというものであり、これはローマ教皇やローマ教皇庁の上位聖職者にとっては到底受け入れがたいものであった。当初ピウス6世は聖職者民事基本法に対して態度を保留していたが、すべてのフランスの聖職者が公務員として革命政府に忠誠の誓いをたてなければならないと定められると1791年3月から4月にかけてこの法令の内容を猛然と非難した。多くのフランスの聖職者たちは当初、教会の民主化を甘受したものの、135名の司教のうち宣誓に応じたのは7名のみであり、教区で直接信徒に接する司祭や助祭は約半数近くに相当する2万4,000名あまりが宣誓を拒否した。また、ローマ教皇が否定的態度を示したことによって宣誓を撤回した聖職者も少なくなかった。
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