1789–90年とは? わかりやすく解説

1789–90年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:25 UTC 版)

四年セイム」の記事における「1789–90年」の解説

改革機運が高まる中、1788年10月6日に181人の議員集まり四年セイム始まった。なお1790年には新たに171人が選出され5月3日憲法前文うたわれたとおりに議員数がほぼ「2倍に」なった。セイム2日目にして、国家ではなく連盟主催という形をとる連盟セイム移行した。これは、自由拒否権発動によってセイム死に体となる恐れ未然取り除くめだったセイム議長マルシャル)には、ほとんどの派閥から支持されていたスタニスワフ・マワホフスキが選出された。 ポーランド改革派から脅威みなされていたロシア女帝エカチェリーナ2世も、この四年セイム承認していた。当時ロシアオスマン帝国との間で第二次露土戦争戦っており、エカチェリーナ2世としてはポーランド改革ある程度成功させて、対オスマン戦争における支援得たい考えていたのであるポーランド内の改革派は、愛国派を結成した。彼らは一部マグナートエスコラピオス修道会から急進的な啓蒙主義カトリックに至るまで、ポーランド・リトアニアあらゆる階層から支持集めたイグナツィ・ポトツキスタニスワフ・コストカ・ポトツキアダム・カジミェシュ・チャルトリスキといった愛国右派プロイセンとの同盟主張しスタニスワフ2世対立した一方で中道派のスタニスワフ・マワホフスキは、国王との協調志向していた。ポーランド・ジャコバン派とも呼ばれる最左翼のフーゴ・コウォンタイらは、ワルシャワ市民の支持求めたスタニスワフ2世は、最初のうちはいくつかの改革について賛意示したものの、イグナツィ・ポトツキら反国王的な共和主義者への抵抗感強く愛国派とは手を組もうとしなかった。 情勢はすべて、愛国派の思い通りに運んでいるかに見えた当時強大な隣国であるロシアオーストリアそれぞれオスマン帝国戦争中で(第二次露土戦争墺土戦争 (1787年-1791年))、さらにロシアスウェーデンとの戦争抱えていた(第一次ロシア・スウェーデン戦争)ため、ポーランド情勢介入する余裕無かった当初スタニスワフ2世や一部の改革派は、墺露同盟ポーランド参加してオスマン戦に参戦することで、ポーランド立場強めとともにロシア改革後ろ盾にしようと考えていた。しかしロシア政府内の紛争のため、この計画頓挫した続いてポーランドは、ロシアの敵である英普蘭三国同盟その中でも特にプロイセン手を組むことを考えた。これは特に愛国内の右派イグナツィ・ポトツキアダム・カジミェシュ・チャルトリスキらが強く推進していた案だった。1790年ポーランド・プロイセン同盟成立しポーランドロシア対抗するための強い後ろ盾獲得したかに見えたスタニスワフ2世は、それまで距離を取っていた愛国派に接近しさらなる改革進展目指した。1790年議員追加選挙では保守色のある王党派ポトツキ革新勢力上回る議席獲得し愛国派に妥協強いた。スキピオネ・ピャットリの仲介により、ポトツキスタニスワフ2世はより立憲王政的な改革を行うことで合意し憲法草案作成取り掛かった結局四年セイム前半2年間では大きな改革実施されなかった。後半2年間でようやく、劇的な変革が起こることになる。

※この「1789–90年」の解説は、「四年セイム」の解説の一部です。
「1789–90年」を含む「四年セイム」の記事については、「四年セイム」の概要を参照ください。

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