1789–90年
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改革の機運が高まる中、1788年10月6日に181人の議員が集まり、四年セイムが始まった。なお1790年には新たに171人が選出され、5月3日憲法前文にうたわれたとおりに議員数がほぼ「2倍に」なった。セイムは2日目にして、国家ではなく連盟の主催という形をとる連盟セイムへ移行した。これは、自由拒否権の発動によってセイムが死に体となる恐れを未然に取り除くためだった。セイムの議長(マルシャル)には、ほとんどの派閥から支持されていたスタニスワフ・マワホフスキが選出された。 ポーランド改革派から脅威とみなされていたロシア女帝エカチェリーナ2世も、この四年セイムを承認していた。当時ロシアはオスマン帝国との間で第二次露土戦争を戦っており、エカチェリーナ2世としてはポーランドの改革をある程度成功させて、対オスマン戦争における支援を得たいと考えていたのである。 ポーランド内の改革派は、愛国派を結成した。彼らは一部のマグナートやエスコラピオス修道会から急進的な啓蒙主義的カトリックに至るまで、ポーランド・リトアニアのあらゆる階層から支持を集めた。イグナツィ・ポトツキやスタニスワフ・コストカ・ポトツキ、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキといった愛国派右派はプロイセンとの同盟を主張し、スタニスワフ2世と対立した 。一方で中道派のスタニスワフ・マワホフスキは、国王との協調を志向していた。ポーランド・ジャコバン派とも呼ばれる最左翼のフーゴ・コウォンタイらは、ワルシャワ市民の支持を求めた。スタニスワフ2世は、最初のうちはいくつかの改革については賛意を示したものの、イグナツィ・ポトツキら反国王的な共和主義者への抵抗感が強く、愛国派とは手を組もうとしなかった。 情勢はすべて、愛国派の思い通りに運んでいるかに見えた。当時、強大な隣国であるロシアとオーストリアはそれぞれオスマン帝国と戦争中で(第二次露土戦争、墺土戦争 (1787年-1791年))、さらにロシアはスウェーデンとの戦争も抱えていた(第一次ロシア・スウェーデン戦争)ため、ポーランド情勢に介入する余裕が無かった。当初、スタニスワフ2世や一部の改革派は、墺露同盟にポーランドも参加して対オスマン戦に参戦することで、ポーランドの立場を強めるとともに、ロシアを改革の後ろ盾にしようと考えていた。しかしロシア政府内の紛争のため、この計画は頓挫した。続いてポーランドは、ロシアの敵である英普蘭三国同盟、その中でも特にプロイセンと手を組むことを考えた。これは特に愛国派内の右派、イグナツィ・ポトツキやアダム・カジミェシュ・チャルトリスキらが強く推進していた案だった。1790年、ポーランド・プロイセン同盟が成立し、ポーランドはロシアに対抗するための強い後ろ盾を獲得したかに見えた。スタニスワフ2世は、それまで距離を取っていた愛国派に接近し、さらなる改革進展を目指した。1790年の議員追加選挙では保守色のある王党派がポトツキら革新勢力を上回る議席を獲得し、愛国派に妥協を強いた。スキピオネ・ピャットリの仲介により、ポトツキとスタニスワフ2世はより立憲王政的な改革を行うことで合意し、憲法の草案作成に取り掛かった。 結局、四年セイム前半の2年間では大きな改革は実施されなかった。後半の2年間でようやく、劇的な大変革が起こることになる。
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