1788年の摂政危機
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「ジョージ4世 (イギリス王)」の記事における「1788年の摂政危機」の解説
1788年夏、おそらく遺伝病であるポルフィリン症により、ジョージ3世の精神状態が悪化した。それでも、彼は公務の一部を止め、議会の9月25日から11月20日までの停会を宣告することができた。議会停会の間、ジョージ3世は狂い、シャーロット王妃をあやうく傷つけるほどであった。11月に議会が再開されるときも、議会の開会式(英語版)での国王演説ができないほどだった。議会は弱い立場に陥った。というのも、長きの間施行されていた法律により、議会は開会式での国王演説の前にはどんな事務も進行できないためであった。 議事が禁止されてはいたが、議会はそれでも摂政についての弁論を始めた。庶民院において、チャールズ・ジェームズ・フォックスは国王が統治不能に陥ったとき、プリンス・オブ・ウェールズが自動的に主権を行使する、とする持論を展開、一方首相の小ピットは成文法で禁止されていない限り、議会のみが摂政を任命する権利を持つとした。彼はさらに進んで、議会の許可がない限り、「プリンス・オブ・ウェールズはそれ以外の人々と同程度にしか政府を率いる権利がない」とした。摂政に関する原則では合意できなかったものの、小ピットはプリンス・オブ・ウェールズが摂政に最も適することではフォックスに同意した。 ジョージは小ピットの押しの強さに怒ったもののフォックスの論点を手を挙げて支持したわけでもなかった。ジョージの弟ヨーク・オールバニ公フレデリックはジョージが議会の許可を得る前に権力をふるうことはないと宣言した。議会で議決された後、小ピットは摂政についての正式な計画を立て、ジョージの権力を大きく制限することを提案した。例えば、ジョージは国王の財産を売却することができず、国王の子供以外に爵位を与えることもできなかった。ジョージは小ピットの計画を批判、「全ての行政機関に虚弱、混乱、不安を生じる」計画であるとした。その後、両派は国の利益のために妥協した。 しかし、摂政法案には国王演説の欠如という技術的な障害があったため、議会は弁論は投票に移ることができなかった。国王演説は国王のほか、枢密院議員が代表して行うことができるが、枢密院議員がその権力を得るにはイギリスの国璽(英語版)が押されなければならず、国璽の捺印が法的に有効になるには国王があらかじめ了承しなければならない。小ピットと閣僚たちは「捺印は国王の事前了承が必要」とする要件を無視して大法官に(国王の許可なく)国璽を捺印するよう命じた。この要求の理由は、国璽が捺印されたことで法案が有効になるからであった。この擬制はエドマンド・バークに「酷い欺瞞」である、「明白に道理に反する」、「偽造、詐欺」であると痛烈に批判された。ヨーク公からも「違憲かつ違法」であると批判された。しかし、ほかの議員たちは有効な政府を維持するためにはそのような行為が必要であると感じた。そのため、議会が再開されて2か月以上経った1789年2月3日には「違法」な枢密院議員たちにより議会の開会式が正式に行われた。摂政法案が提出されたが、議決にかけられる前にジョージ3世が回復した。ジョージ3世は枢密院議員たちに権利を与えた行為をさかのぼって有効であるとした。
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