1789年三部会とは? わかりやすく解説

1789年三部会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:45 UTC 版)

三部会」の記事における「1789年三部会」の解説

フランス革命の時、第一身分10万人のカトリック聖職者で、彼らはフランス全土5-10%の土地所有しており、一人当たり所有率としては全身分の中で最も高かった。さらに第一身分財産免税されていた。第二身分貴族で、子供婦人含んだ人口40万人だった。1715年ルイ14世崩御後貴族権力回復享有していた。彼らは高位官職高位聖職、軍会議そしてその他の公共および半官半民特権独占していた。封建的慣習により彼らも第一身分同じく免税されていた。第三身分2500万人ブルジョワ農民その他のフランス国民からなっていた。第一第二身分異なり第三身分納税強いられていたが、ブルジョワ何らかの手段でこれを逃れていた。フランス政府財政重荷農民都市労働者といった貧し人々課せられていた。第三身分からは上位身分対す敵意向けられていた。 ルイ16世の時代になるとフランス深刻な財政危機に陥り、政府はこの打開策として免税特権有する身分からの課税図った。だが、貴族特権擁護するパリ高等法院はこれに抵抗し1787年パリ高等法院土地税、印紙税といった新たな課税登記拒否し納税者の代表の同意が必要であると宣言して三部会要求した1787年フェヌロン望んでいた名士会開かれたが、名士会もまた新税を拒否した1789年三部会の招集が行われた。1614年形式従い三部会の各身分定員同数とされていた。第三身分定員倍増要求し最終的に受け入れられた。5月5日ヴェルサイユ三部会開催されると、定員倍増誤魔化しに過ぎないことが明らかになった。投票は各身分ごとに行われ第三身分の578人の代表は他の身分と同じ重みしかないことを意味していた。 課税問題のみに集中させようとする国王努力完敗した三部会はすぐに行き詰まり財政問題よりも三部会自体議決形式巡って紛糾した会議膠着状態に陥り、6月12日第三身分代表として三部会出席した聖職者アベ・シエイエスは、別個に審議行っていた他の二身分にも第三身分への参加呼び掛けた第三身分6月17日プロセス完了して、より過激な施策採決し、自ら第三身分ではなく人民」のための国民議会宣言した国民議会は他の身分にも参加呼び掛けたが、彼らの参加如何に関らず国政を担う意図明らかにしていた。 国王ルイ16世抵抗試みた国王会議場Salle des États)を閉鎖すると、国民議会近くにある球戯場移って議論行い球戯場の誓い至った1789年6月20日)。ここで彼らは憲法制定するまで解散しないことに同意した程なく聖職者の代表の大多数47人の貴族がこれに参加した6月27日国王はこれに屈して第一身分第二身分第三身分への合流指示したが、多数軍隊パリヴェルサイユ周辺集結していた。パリその他の都市から国民議会支持するメッセージ押し寄せた7月9日国民議会は自ら憲法制定国民議会再編した

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