1789年三部会
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フランス革命の時、第一身分は10万人のカトリック聖職者で、彼らはフランス全土の5-10%の土地を所有しており、一人当たり所有率としては全身分の中で最も高かった。さらに第一身分の財産は免税されていた。第二身分は貴族で、子供や婦人を含んだ人口は40万人だった。1715年のルイ14世の崩御後、貴族は権力の回復を享有していた。彼らは高位官職や高位聖職、軍会議そしてその他の公共および半官半民の特権を独占していた。封建的慣習により彼らも第一身分と同じく免税されていた。第三身分は2500万人でブルジョワ、農民その他のフランス国民からなっていた。第一、第二身分と異なり、第三身分は納税を強いられていたが、ブルジョワは何らかの手段でこれを逃れていた。フランス政府財政の重荷は農民や都市労働者といった貧しい人々に課せられていた。第三身分からは上位身分に対する敵意が向けられていた。 ルイ16世の時代になるとフランスは深刻な財政危機に陥り、政府はこの打開策として免税特権を有する身分からの課税を図った。だが、貴族特権を擁護するパリ高等法院はこれに抵抗し、1787年、パリ高等法院は土地税、印紙税といった新たな課税の登記を拒否し、納税者の代表の同意が必要であると宣言して三部会を要求した。1787年にフェヌロンが望んでいた名士会が開かれたが、名士会もまた新税を拒否した。 1789年に三部会の招集が行われた。1614年の形式に従い、三部会の各身分の定員は同数とされていた。第三身分は定員の倍増を要求し、最終的に受け入れられた。5月5日にヴェルサイユで三部会が開催されると、定員の倍増は誤魔化しに過ぎないことが明らかになった。投票は各身分ごとに行われ、第三身分の578人の代表は他の身分と同じ重みしかないことを意味していた。 課税問題のみに集中させようとする国王の努力は完敗した。三部会はすぐに行き詰まり、財政問題よりも三部会自体の議決形式を巡って紛糾した。会議は膠着状態に陥り、6月12日、第三身分代表として三部会に出席した聖職者のアベ・シエイエスは、別個に審議を行っていた他の二身分にも第三身分への参加を呼び掛けた。第三身分は6月17日にプロセスを完了して、より過激な施策を採決し、自ら第三身分ではなく「人民」のための国民議会を宣言した。国民議会は他の身分にも参加を呼び掛けたが、彼らの参加の如何に関らず国政を担う意図を明らかにしていた。 国王ルイ16世は抵抗を試みた。国王が会議場(Salle des États)を閉鎖すると、国民議会は近くにある球戯場に移って議論を行い、球戯場の誓いに至った(1789年6月20日)。ここで彼らは憲法を制定するまで解散しないことに同意した。程なく聖職者の代表の大多数と47人の貴族がこれに参加した。6月27日、国王はこれに屈して第一身分と第二身分へ第三身分への合流を指示したが、多数の軍隊がパリとヴェルサイユ周辺に集結していた。パリやその他の都市から国民議会を支持するメッセージが押し寄せた。7月9日、国民議会は自ら憲法制定国民議会に再編した。
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