駅路のシステム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 07:39 UTC 版)
古代律令時代の駅路は七道駅路ともよばれ、古代日本の領域を覆うように巡らされた駅路の道路網を指し、畿内にある都(平城京、のちに平安京)を中心として樹状に、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道の地域のすべての国々に伸びていた。西海道のみ大宰府を中心に道路網が形成され、都とは、九州地内における山陽道と大宰府を結んだ区間である大宰府路(大宰府道)とよばれる西海道の一部と、山陽道を通じて結ばれた。また、七道駅路は重要性によって大路・中路・小路に分けられていた。大路は山陽道と大宰府道、中路は東国に向かう東海道と東山道、小路は北陸道・南海道・山陰道・西海道(大宰府路を除く)に該当する。古代律令国家の大動脈となった大路は、外交・防衛上から大陸に最も近い西海道と朝廷がある畿内を結ぶ山陽道が、重要な交通路として最も栄えた。 駅路は原則として所属する七道ごとに、隣接する国々を順次つないでいく経路が取られたが、途中で駅路から外れた国府と駅路を結ぶ支路(支線)を出してつなげる場合も存在し、時代によって駅路の経路や支路の出し方に変遷があった。この例として、四国の各国のつなぎ方は何度も変わっており、東山道武蔵路については、武蔵国の所属が東山道から東海道に変わったために、道が付け替えられて廃止された。本路・支路など七道に属する駅路のほかに、東山連絡路(常陸 - 陸奥)、北陸道連絡路(信濃 - 越後)など、各道相互を接続する連絡する駅路があった。この連絡路は、一方の駅路が何らか事故などで不通になったときの緊急時の対策として、別の駅路を通って都へ行けるようにするために、迂回路として機能する道として造られたものである。 駅路には、平均して30里(律令制の30里は現在の16km前後と推定されている)ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅制とよばれる古代道路におけるシステムによって運用された。しかし、全てが一律に30里であったわけではなく、例えば、山陽道だけは平均駅間距離が一般駅路の3分の2程度であり、また途中に神坂峠越えを含んだ難所として知られていた美濃国の坂本駅と信濃国の阿智駅との間の距離は74里もあった。大路の駅家には馬20頭、中路の駅家には馬10頭、小路の駅家には馬5頭が配置されていた。また、佐渡国や隠岐国、西海道・南海道など海路を経由する駅路の駅には船も設置されていた。水駅や大きな川沿いの駅には駅船も置かれていた。 平安時代の法令集である『延喜式』の「諸国駅伝馬」の条項に、全国66国2島(壱岐・対馬)における国別の駅名と駅馬の数が記載されており、その当時の総駅数は402駅あったとされる。また駅路の総延長は複数の説があり、歴史学者の青木一夫の研究によれば6400 km、工学博士の武部健一によれば6300 kmと算出されている。
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