電車の火災事故対策の移り変わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 08:34 UTC 版)
「地下鉄等旅客車」の記事における「電車の火災事故対策の移り変わり」の解説
日本において、最初に火災事故対策を強く意識した車両は、1927年、東京地下鉄道(現・東京地下鉄銀座線)に、開業と共に導入された1000形電車である。まだ木造車両が現役で幅広く活躍していた時期に、「地下鉄で最も恐れなければならないのは火災である。日本は地震国であり、したがって火災事故は起こるものと考慮されてしかるべきである。そのために、地下鉄に導入する車両は燃えない全金属製車両でなければならない。」という考え方から、車体が全鋼製であるだけではなく、内装も金属を多用し可燃物を可能な限り使用しない設計とした。この車両が現在にも至る、日本の全地下鉄車両の不燃性を考慮するうえでの最初の雛形になった。 1951年4月24日に発生した桜木町事故は、停電時にドアの開閉操作ができないこと、貫通扉が内開戸式で、脱出を試みる旅客の圧力で開扉出来なかったこと、三段式窓の中段が固定されていて脱出に困難を極めたこと、戦時設計で塗料を含め可燃性の材料を多く使用していたことなどの要因が重なり、死者106名、負傷者93名の大惨事となった。これに伴い事故の引き金となった63系の改修工事が、日本における本格的な鉄道車両の火災対策といってよい。このため、以下の改修工事が行われた。 貫通路の設置と、内開式貫通扉の撤去 車内警報ブザーの新設 乗客が非常時に扱えるドアコックの新設 絶縁強化・防火塗料の塗布 三段窓中段の可動・上昇式化 その後、木材を使用しない全金属製車体が1950年代後半から実用化されることとなった。 1956年5月7日に発生した南海高野線での火災事故を受け、運輸省(当時)が火災事故対策に乗り出し同年6月15日付けで電車の火災事故対策について(鉄運第39号)を通達し、さらに同年8月の近鉄高安工場での燃焼実験を受け、1957年1月25日付で電車の火災事故対策に関する処理方について(鉄運第5号)を通達した。この通達ではA様式・B様式の2種を定め、新製車のうち、主として地下線を運転する車両・地下線に乗り入れ運転する車両・別に指定する路線を運転する車両はA様式で、その他でも極力A様式で製造することを求めた。既存車両も更新時にはA様式またはB様式での改造をすることとした。既存車両についてはまだ木造車が中小私鉄に残っており、努力義務に近かった。その直後、1957年7月16日に発生した大阪市営地下鉄御堂筋線での火災事故により、地下鉄用旅客車においてはより厳しい基準が必要であるとのことから、1957年12月18日付で電車の火災事故対策に関する処理方の一部改正について(鉄運第136号)を通達し、A-A様式を追加した。 1968年1月27日に発生した営団日比谷線神谷町駅での東武車両の火災事故では、主回路が異常な閉回路を構成しA-A様式車両が1両全焼に至ったことから、1969年5月15日付「電車の火災事故対策について」(第鉄運81号)を通達した。これは、従来のA-A様式・A様式・B様式を基本としつつより火災対策を強化したもので、A-A基準・A基準・B基準と名称も変わり、その後国鉄分割民営化に伴う法令改正までこの基準で鉄道車両は製造されることになるが、現在この通達はすでに廃止されている。
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